『笑う故郷』レビュー ~芸術の不確かさ 皮肉るという行為を通じて~

◆基本情報                         

・原題『EL CIUDADANO ILUSTRETHE DISTINGUISHED CITIZEN

・2017年9月 日本公開

・監督 ガストン・ドゥブラット、 マリアノ・コーン  脚本 アンドレス・ドゥブラット 

・出演 オスカル・マルティネス、 ダディ・ブリエバ、 アンドレア・フリヘリオ、 

 

◆あらすじ

小説家のダニエル・マントバーニ(オスカル・マルティネス)は、文学における功績が認められノーベル文学賞を授かる。当然、取材や講演の依頼が引っ切り無しに舞い込むが、厭世的な性格から、ことごとく断っていた。数ある依頼の中に、故郷であるアルゼンチンの田舎町サラスから名誉市民の称号を与えたいとの申し出を見つける。

数十年以上離れていた故郷へ帰ることになったダニエルだが、そこで小さな騒動に巻き込まれていく。

 

◆レビュー

悲劇と喜劇の対比は、割り合いよく語られるテーマではないでしょうか。ブラックジョークなんか最たる例で、日本人の感性では不謹慎すぎて笑えないことがしばしばでも、外国人の視点では機知に富んで見えるのでしょう。

そんなアンビバレントな二つの感情を的確に捉え、不条理の地平の先を覗かせてるのが、今回レビューする『笑う故郷』です。

アルゼンチンとスペインの合作。南米の独特の感性に彩られた興味深い作品でした。

 

〈田舎独特の粘っこさ〉

劇中の大半を占める、泥臭くて愚鈍な田舎の情景描写がなんとも妙趣な部分。閉鎖的な鬱積が漂う、燻った雰囲気を視覚的に写し出しています。

例えば、ダニエルがサラス到着した直後からも見て取れます。栄誉あるノーベル賞作家の出迎えに現れた男の不細工なビジュアル、洗練さのかけらもない立ち振る舞い。細かい美術について言えば、乗車した車の窪んだヘッドライトにも配慮がいき届いています。

数分前まで画面に写し出されていた、壮麗でエレガントなダニエルの豪邸との較差がくっきりと現れています。

ここで描かれる田舎の人間の負の感情は、限られた土地に縛られて内へ内へと溜め込まれたもの。

地元の盟主であるロメロのプライドや、アントニオのジェラシーから強烈な印象を植え付けられました。彼らがダニエルに固執するのは、悠々と外の世界で生きている者への羨望が含まれているためです。

終盤近くにある抽象表現で、街の住人たちが銃を携えているシーンが挿入されていますが、あのシーンは彼らの抱える鬱積が、攻撃性にまで昇華しうることの表れだと感じました。

ダニエルがサラスの町を出た理由もここに見出すことが出来ます。にもかかわらず、小説の題材にサラスを選び続けるのは、心のどこかで自身のアイデンティティがこの土地にしかないと理解しているからです。

権威と栄光を手に入れ、どんなに芸術家らしく振る舞っても、ダニエルのコンプレックスは解けないままであることがわかります。

 

〈フラットな演出〉

本作の演出は、非常に平易でシンプルになっています。

なにか起きそうなのに起きない緊張感は、スリラーのようにも見えますし、同時にその張り詰めた空気を達観してみると、コメディのようでもある。重要なのは、どちらの色付けもしていないことです。そうすることで、ねじれの位置にあるはずの二つのジャンルが、同時に存在することができます。

例えば、アントニオにとって、妻の元恋人にあたるダニエルへの敵愾心。中年男の嫉妬を必死に隠しながら鞘当てをしているところは、一周回って可愛らしくも映ります。

ノーベル賞作家の威光にあやかり、地位を固めようと画策する町長の小狡さ。そこから卑小な人格が透けて見える痛々しさ。

フリアが友人の娘であることが判明した瞬間にも、ある種のおかしみが存在しています。

「修羅場に発展するのではないか?」「なんてことしてしまったんだ」というダニエルの真に迫った焦りが、俯瞰で観ている我々の心をくすぐってきます。

描写のバランス感覚は非常に巧みです。悲劇と喜劇の境目を見定め、ギリギリのラインを狙って演出しているのです。

本作の演出は、現実の写し鏡と形容できます。現実の無秩序な世界の中で、起こった事象をどう解釈するのかは、主観をもった当人その人であるからです。

このように観ると、本作における映像の色調も大きな意味をもつのではないかと考えられます。

鑑賞していて気が付いたのが、画面の彩度を調整するカラーグレーディングが、ほとんどされていません。どの場面でも常に一定の色味のままで、映画らしい情感に訴える工夫はなされない。むしろドキュメンタリー映像に近しいのもがあります。

つまり、このような色調にすることで事態をフラットに捉え、喜劇と悲劇の二つの要素を偏りなく配分する狙いが隠されているのではないでしょうか?

演出プランと映像技術を高度に絡めた表現であると言えます。そして、語られるテーマ自体とも深く関係してきます。

 

〈解釈を決めるのは誰か〉

この作品のテーマは、ラストのオチのでダニエルの口から語られる。

「重要なのは“解釈”である」と。

小説のような芸術に関しては、何が優れていて何が劣っているかの判断が難しいものです。評価を決定づけるのは、書き手の技量と同時に、受け取り手の視点と解釈に因るところが大きい。つまり本作は、芸術の孕む不確かを提起しているのだと言えます。

劇中、絵画コンクールの賞を選定するシーン。ダニエルが屁理屈ともとれる理由で平凡極まる画を評価しました。

他にも、冒頭のノーベル賞の授賞式において、ダニエルの発言の意味を測りかねた観衆の戸惑い。それでも、ノーベル賞作家の発言なのだからと、少しの間をおいてスタンディングオベーションする滑稽さ。

これらのシーンから読み取れるのは、権威に盲従する大衆の愚かさです。そして彼ら気が付いていません。自分たちが評価するからこそ、ダニエルの価値が確固たるものになっている事実に。

ブラックコメディとは、本来ならば悲劇であるものを、皮肉ることで喜劇に転化することです。つまり、どんな出来事でも解釈次第でどうにでもなるという考えが元になっています。

この映画が素晴らしいのは、芸術の持つ不確かを、同じ性質のあるブラックコメディというジャンルで描くことで、克明に表している点です。

本作を芸術映画と捉えるのか、はたまたコメディ映画と捉えるのかは、鑑賞者である私たちの“解釈”に委ねられているのです。

 

◆余談

映画のレビューなんかやっていると、穿った解釈をしがちになります。いろいろこねくり回してるうちに、自分でも明後日の方向に考えが及ぶこともあります。

ちなみにこのレビューで、画面のカラーグレーディングがドキュメンタリータッチであると書きましたが、このへんも理屈として怪しいかなとも思います。

というのも、私の不勉強でスペイン・アルゼンチンの映画をほとんど見たことがないからです。もしかしたら、南米映画ではカラーグレーディングをしないのがスタンダードなのかも。

もしも、『笑う故郷』の制作陣がこの記事を読んだら「そんな意味ないよ。勝手に深読みしやがって」と鼻で笑われるかもしれません。

けど、結局どうやって解釈するのかを決めるのは、受け手側ですから。問題ないですかね。