『夜明告げるルーのうた』レビュー ~和解の瞬間に訪れる感涙 アニメーションだからできたこと~

◆基本情報                         

・2017年5月 公開

・監督 湯浅政明  脚本 湯浅政明、 吉田玲子

・出演(声優) 谷花音、 下田翔太、 寿美菜子、 斉藤壮馬

 

◆あらすじ

東京から港町の日無町に移り住んできた足元カイ(下田翔太)は、内向的な性格から生活に馴染めないでいた。唯一の趣味は音楽の打ち込みで、その動画を投稿し公開することだった。偶然クラスメートの海老名遊歩(寿美菜子)と国夫(斉藤壮馬)に動画を発見され、腕前を見込まれたカイは、二人から「セイレーン」というバンドを一緒にやらないかと誘われる。渋々バンドに参加したカイだったが、練習場所である人魚島で女の子の不思議な声を聞く。

 

◆レビュー

アニメーションという媒体を介することで最大限伝わることがあると思う。

今まで、このブログでは洋画ばかり扱っており、邦画のそれもアニメ作品をピックアップするのは初めてになります。ここ最近の私の課題はハリウッド映画偏重の見直しであり、その一歩として『夜明け告げるルーのうた』は最適かと思います。というのも、本作は実写映画にはない愉しみに溢れた快作だと感じたからです。

基本的な作品解釈のスタンスは変わらないのですが、アニメーションの世界観が作品をいかに昇華させるのかの見解の提示を試みます。

本作の監督である湯浅政明氏の作品は『夜は短し歩けよ乙女』のみ鑑賞済み。こちらは一応楽しめたのですが、個人的にはそこまでツボに嵌らなかったのが正直な感想です。作画の出来による差と言うよりも、メッセージ的な意味合いで私の趣好が影響した結果です。それだけ『夜明け告げるルーのうた』から投げかけられた感動に、心揺さぶられたのだともいえます。

 

〈世界観 都会性と田舎の共存〉

今回の主題とは少し脱線しますが、作品を包み込む世界観もまた、現代性を反映させた問題提起として秀逸かと思います。

舞台となる日無町は人魚の伝説生きつく港町で、廃れゆく地方都市のステレオタイプとして描かれます。町を支えるのは漁業と傘の二本柱ですが、産業の先行きは芳しくありません。その斜陽を迎えた様子は、日無町という名称にも象徴されています。

行き詰った町の現状を打開するべく、人魚を利用したPRをして町の活性化を狙うのは、この手の映画でままよくある展開。ここで描かれるのは、人間のエゴが伝統や環境を侵食していく様です。人魚ランドなるアミューズメント施設は最たる例で、誤った共存の姿として、忌むべき場所として描かれます。

上記の例と対となるのは、物語の終盤にある人魚と人間が協力して災害を乗り越えるシーンです。人魚は人間を救い、人間は日傘で人魚を守る姿は正しい共存の模範解答なのだと言えます。

正しい共存といえば、ミサキ先輩が果たす役割も見逃せないところ。序盤で一度東京に行って、出戻りで落ちぶれたように言われていますが、本当は日無町でカフェと観光業を両立させていこうと計画しています。カフェにある都会的な雰囲気は、東京で過ごしたから獲得できたもの。そして、観光業は地方に根差しているからこそ成り立つものです。この二つを引き合わせる発想は「都会性を正しく取り入れることで田舎の発展に繋がるのではないか」という、本作スタンスを明瞭に表しています。

地方の過疎化が深刻化している昨今、こういったテーマを盛り込んだ作品は数知れずあるでしょう。その中でも本作が示した共存の有り様は、押しつけがましくないものです。気負いのないメッセージだからこそ、観た人の胸に自然と染み入る浸透力があるのだと思います。

 

〈アニメーションの躍動感〉

アニメーション独自の魅力は、実写では表現しえない“動”的な要素にあると考えます。その意味において、湯浅政明監督の作り上げた世界は飛びぬけてアニメ的と言えます。

その楽しみに溢れた魅力は枚挙にいとまがありません。

初めに触れておくべきは、ルーというキャラクターです。ルーが縦横無尽に踊り、感情豊かにリアクションを取る所作すべてが、アニメの喜びに満ち満ちています。人魚の子供だからこそ、人間世界で目にする出来事に素直に反応し、歓喜・感動・驚愕・落胆・悲嘆のすべてをダイレクトに動きで表しているのです。ルーを演じた子役の谷花音の演技も申し分なかった。

声優陣の好演も見どころの一つで、主人公カイ役の下田翔太は、思春期ならではの繊細な少年を演じきっていましたし、遊歩役の寿美菜子は、若者らしさと方言が入り交じった喋りが絶品でした。

劇中、ルーが海水を自在に操るところも、エネルギッシュな妙味が抜群に効いています。ダイナミズムある海水の動きは、アニメだからこそ実現できたものです。

他にもアニメ的なデフォルトが効いた場面として、お蔭岩と人魚伝説の説明をする際にロールプレイング形式にしていること、カイの祖父の昔話になると水彩画調の画風を取り入れていることなどが挙げられ、随所に工夫が凝らされています。

ところどころ遊び心のある演出を積極的に取り入れていますが、背景にある日無町の自然豊かな色彩は、しっかりと地に足のついたリアルな画造りが徹底されていて、世界観の構築にも抜かりありません。

ギャグシーンも面白く、椅子レースのシーンや「生き〆ですから」の件は手放しで笑いました。

このように、本作ではアニメーションの力強さは、観客を視覚的に楽しませる役割を充分に果たしています。しかしそれだけではなく、後述するメッセージ性を担保するためにも絶対に必要不可欠なものでもあるのです。

 

〈音楽を介して伝わること〉

音楽の魅力によって人の心を動かす。それを作中で実現するには、実際にかかるメロディー、楽曲自体に相応の求心力がなくては成立しません。

まずガツンとやられたのが、オープニングです。エコーがかかったような幻想的なルーの声に誘われ、始まる音楽の力で、グイグイと作品世界に引きずり込まれました。

そして何より、灯籠祭でセイレーンが演奏を初披露するシーンが最も音楽の魔力を体感するところだと断言します。カイやセイレーンのメンバーだけではなく、その場に集まった大勢の人間が、ルーの歌声に逆らえず踊り出す。文字通り、身体が勝手に動き出すわけですが、それは、劇中の登場人物だけに留まらず、映画を観ている我々観客にまで当て嵌ります。つまり、鑑賞者も灯籠祭の場にいるように感じ、音楽の魅力を追体験をすることができるのだと言えます。加えて、あのシーンはアニメ的なデフォルメが効いた表現も小気味よく、視覚的な面白さも兼ね備えています。まさに、アニメと音楽の融合が達成されている。

あの瞬間、あの場にいる誰もが同じ気持ちを共有している喜び。その瞬間的かつ奇跡的な喜びを実現できたのは、他でもなく音楽の存在があるからです。灯籠祭のシーン一点に、湯浅政明監督がやりたかったことが集約されています。

音楽について、劇中流れる斉藤和義の『歌うたいのバラッド』がメインソングとなっています。この曲が選ばれたのは、映画を通じて伝えたいメッセージ「歌を通じて気持ちを伝える」を体現しているからです。歌詞にあるように、ものすごくストレートに、気持ちを伝えることの大切さを説いた名曲となっています。

 

〈わだかまりが解ける瞬間〉

この作品の最大のテーマは「他者と私は分かり合えるのか?」です。とても普遍的な命題で、それゆえに答えが難しいはず。しかし、本作では非常に説得力をもった回答を提示しています。

人魚とは人間にとって、自分とは違う異質な存在で、つまりは他者そのものとして扱われます。理解できない相手だからこそ恐れ、偏見が生まれるのです。

人魚に噛まれると人魚になってしまう。町の中で噂が流れていく描写は、悪意がなく偏見が蔓延していく様を表しています。

カイの祖父が人魚を敵視していたのは子供の頃に、母親が人魚に噛まれて亡くなったと思っていたからです。しかし実際は、人魚が溺れているところを助けたことが真相でした。

タコ婆が人魚を憎み続けていたのは、恋人を人魚に殺されたと思い込んでいたからが、後に人魚となった恋人に再開できました。

誤解と偏見から相手と理解し合えないのはもどかしく、心苦しくもの。その誤解を解く方法は「ゆっくり、一言一言区切って」伝えることです。自分とは違う者と理解し合うための方法は、当たり前なのですが、自分の気持ちを伝えるほかないのだと訴えかけてきます。

分かり合えた瞬間の感涙を象徴しているのが、カイと父親との和解のシーン。思いの丈を正面から伝える時、背筋がゾクゾクするような感動を体験できました。

本作は、「あなたと私」の溝が埋まり、わだかまりが解ける瞬間の喜びを描いた作品。そして、この結論が甘っちょろくなく、説得力のあるメッセージになっているのは、アニメーションの世界だからに他なりません。ともすれば、綺麗ごとになりかねない回答も、アニメというフィルター通して現実の無常感を色抜きすることで、我々鑑賞者の胸に淀みなく届くのです。

 

◆余談

前回レビューした『おとなの事情』にて、人がうまく付き合っていくには、嘘が必要なのだと書き、ある意味で今回の『夜明け告げるルーのうた』の結論とは真逆の意見になりました。私はどちらの結論も間違っているわけではなく、両方正しいのだと思います。矛盾しているのではなく、そこにこそ、実写とアニメで伝えられるメッセージ性の違いが顕著に出てきます。

と、あらぬ誤解が生まれないように、一応フォローを入れて終わります。