『マンチェスター・バイ・ザ・シー』レビュー ~なぜ、この町が舞台に選ばれたのか~

 ◆基本情報

・原題『MANCHESTER BY THE SEA』

・2017年5月 日本公開 

・監督 ケネス・ロナーガン  脚本 ケネス・ロナーガン

・出演 ケイシー・アフレック、 ルーカス・ヘッジズ、 ミッシェル・ウィリアムズ、 カイル・チャンドラー

 

◆あらすじ

ボストンで便利屋として働いているリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は、不愛想で人を寄せ付けない男だった。孤独な日々を送る中で突如、兄が亡くなったという知らせを受け、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ることとなる。しかし、リーには故郷での悲しい過去があり……。

 

◆レビュー

今回はベンアフレックの弟、ケイシー・アフレック主演の『マンチェスター・バイ・ザ・シー』をレビューします。2017年度(第89回)アカデミー賞において、主演男優賞、脚本賞を受賞。華々しい評価の半面であまり目立った印象のないのは、宣伝の影響が強いからでしょう。私は本作をTSUTAYAでレンタルして鑑賞したのですが、店内に並んでいた在庫の少なさに唖然。同じくアカデミー賞関連作品で言えば、『ララランド』『メッセージ』『ムーンライト』辺りは、幅広いスペースを確保し、堂々たる陳列と販促が行われているため、これらの作品とは扱いが対照的です。思い起こせば、公開当時からTVやネットでのプロモーションは積極的でなかったように記憶しています。

それもそのはず。この静かな作品の雰囲気を考えれば、万人受けするものでないのは明白で、大々的な広告はかえって釣り合わないと思いました。

 

〈多くを語らない演出〉

とにかく、静かな作品です。

その作風は、主人公のキャラクターに体現されています。人との関わりを避けて、寡黙に独りで生きる姿は、辛い過去が影を落としていることの表れです。

リーの暗い孤独の色は、社会的に当然な営みをしている人達とは明らかに異質なものです。物語序盤でリーが黙々と便利屋の仕事をしている場面。行く先々で家主と事務的な会話をするのですが、彼らは家族や友人との関わりをもち、人の輪に組み込まれています。会話の節々にあるやり取りの中から、リーと普通の人との差が露わになるのが、地味ながら巧みです。

その直後のバーでのシーンでも、明らかに女性から近づきアプローチをしてきているのに、避けてしまいます。その女性が他の男と酒を飲んでいる姿もチラッと画面に映り、何とも哀愁漂う場面です。

思えば、本当に独りになりたいのならば、家に籠っていればよいもの。バーに独りで飲んでいる人間の心理には、人の輪の中にいたい欲求が隠れているのではないでしょうか。これらの描写が表すもの、リーは心のどこかで“繋がり”を求めていたことが見て取れます。

静けさと言えば、マンチェスター・バイ・ザ・シーの情景も、良い味出しています。淀んだ灰色の曇り空と、その色彩を反射した海の水面が画面全体に広がります。降りしきる雪は激しさはないが、積雪から立ち上る冷気が針の様に皮膚を刺激する。そこから伝わるヒリヒリとした痛みは、リーの感じている孤独な心情と呼応します。

本作の公式サイト調べると、この町は観光地としての側面もあるものの、漁業あまり振るわないとのことでした。町の寂れた雰囲気が、映画の世界観をしっかりと醸成させています。

演出に関して、全編に亘って無駄なセリフを削っているのが英断です。

兄の葬儀のシーンや、ラストの漁船で釣りをするシーンなど肝心な場面では、特に静寂が画面を支配します。セリフで語られるのは、物語のテーマとは直接的には関係ない日常的な会話で、そのやり取りの滑らかさには、実は高度な技量が要求されます。

物語を通して何かを伝える時、どうしてもそのメッセージを直接語りたくなるもの。そこをグッとこらえる忍耐があるかないかが分かれ道となる。

本作でアカデミー脚本賞を受賞したケネス・ロナーガンが評価されたのは、この“あえて語らない”決断力が大きかったのだと考えます。主人公リーのキャラクター、マンチェスター・バイ・ザ・シーの雰囲気、悲しみと対峙する物語、すべてを考慮したうえで、作品の解釈をわれわれ観客に投げかける勇気を持った脚本だと言えます。

 

〈血の繋がりがもたらすもの〉

ストーリーが動きだすとっかかりは、兄ジョー・チャンドラー(カイル・チャンドラー)の死とそれに端を発した後見人問題です。リーはこの件で否応なく甥のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)と交流をもつ羽目になるわけですが、感心したのはこの二人の距離感です。

変にべたべたしない男二人の関係性が絶妙な塩梅になっています。リーは自分の犯した過失から自責の念に捕らわれ続けていて、パトリックは一見明るく振る舞ってはいるものの、父を失った痛みを心底にしまいこんでいます。共に痛みを抱えるもの同士が、心を通わせていく過程は、むずがゆいような微々たる心理の変化でしか現れません。

結局二人は、一緒に住むのではなく別々に暮らす道を選ぶわけですが、この選択も彼ららしい道だといえます。

それでも、二人の関係を愛おしく思うのは、不器用ながら互いに慮る感情が芽生えているのがわかるからです。ラストシーン周辺のやり取りがなんとも秀逸。リーが新居の話をする際「ソファーベットを買うか」と言うところ、パトリックをいつでも迎え入れる気持ちをぶっきらぼうに表しています。そして二人が、道端でボール遊びをする後姿が微笑ましい。

どうしようもなく悲しい時、なにも言わなくてもただ隣に寄り添う誰かがいるだけで、人の心は癒されるものです。

後見人制度とは本来、未成年者の援助を目的としています。しかし、助けられたのはパトリックだけでなく、制度によって引き寄せられたリー自身もでした。

血の繋がりや、そこに関わる法や制度はよくできたもので、人との関わりを繋ぎ止め、孤独から救い出す“鎖”の役割を担っています。

 

〈重層的な構造〉

本作の構成として、時系列を交互に重ねる重層的な造りになっています。一つ目の時系列は、現在、兄のジョーが亡くなり、リーが孤独に過ごしているとき。二つ目の時系列は、過去、リーがマンチェスター・バイ・ザ・シーで暮らし、妻も子供もいたとき。

この物語構造は、とても機能的な構造と言えます。

一つ目は、主人公のバックグラウンドを掘り下げるにあたっての流暢な語り口としての機能。そのままの時系列順に並べた構成にすれば冗長で退屈になりそうなもの。特に本作のような静かで派手な動きのない映画の場合、顕著に退屈が表れる恐れが強い。その点、重層構造を取り入れることで、主人公の過去をミステリー要素を含ませ、本作を幾分か刺激的に成立させています。

二つ目は、主人公の孤独を引き立たせるための対比の機能。過去のリーは、家族があり、友人もいて明るく社交的な人物でした。重層構造を駆使して、現在のリーの不愛想で寡黙な様子と交互に描き対比させることで、彼の変わり様を明瞭に表現しています。その落差が大きいほど、彼の抱えていた罪悪感がより強く感じられるのです。

三つ目は、リーの混濁した精神状態を表す機能があります。現在のリーがソファーでうたた寝をした場面、瞬間、娘たちが近づいてきて、過去のエピソードに移ったのかと錯覚するのですが、それはリーの夢でした。あの場面のある種の騙し演出は、重層構造があったからこそ機能が強まり、観客をドキッとさせます。あのワンシーンだけでも、主人公の不安定な心情が読み取れます。

セリフだけではなく、構成についても考え抜かれた造りであることが分かります。

 

マンチェスター・バイ・ザ・シー

物語の舞台はなぜ、マンチェスター・バイ・ザ・シーでなければならなかったのでしょうか?

前述した、町の雰囲気が非常に良いことに加えて、もう一歩踏み込んだ考えをしてみようと思います。

以下に『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の公式サイトより、ケイシー・アフレックのインタビューを引用します。

 

 

——ケネスはどうやって彼自身は知らない町の地元感を出したんでしょうか?

「そう、彼はマンチェスター・バイ・ザ・シーに行ったことがなかったと思う。彼の『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』や『マーガレット』はニューヨークが舞台だ。ほかにも彼は南部のどこかの町を舞台にした、劇の脚本を書いたこともある。彼の脚本はまるで地元で育った人が書いたとしか思えないものだ。耳がいいだけでなく、たぶん万人に通じる話し方に精通してるのだと思う。地域特有のアクセントやスラング、口調なんかは身につけることが可能だけど、脚本で重要なことは、物語の内容や登場人物たちの描写の仕方。彼の脚本は魔法みたいだよ。登場人物はみな複雑で、本物の人間みたいだ

 

 

上記のような発言にあるように、監督、脚本のケネス・ロナーガンは、マンチェスター・バイ・ザ・シーとあまり縁が深くないようです。それでも、舞台にこの町を選んだからには、理由があることが推測できます。

私が着目したのは、町の名前に関する歴史です。

一通り調べたところ、“マンチェスター・バイ・ザ・シー”という町の名前は、その成立が一風変わっていることが分かりました。

マンチェスター・バイ・ザ・シー”はマサチューセッツ州に属しており、元々はシンプルに“マンチェスター”という名前の町でした。ところが、近郊のニューハンプシャー州の巨大都市も“マンチェスター”という同じ名前だったため、両都市の混合を避ける目的で、マサチューセッツ州の“マンチェスター”を“マンチェスター・バイ・ザ・シー”と改名しました。

ニューハンプシャー州の“マンチェスター”は人口10万人程の工業都市で、非常に栄えています。

対して、本作の舞台であるマサチューセッツ州の“マンチェスター・バイ・ザ・シー”は、人口5千人程の海沿いの町で、こじんまりとした静か雰囲気があります。

両都市の対比は、栄えて賑やかな都市と、寂れた町と言い換えることが出来ます。

つまり、この現実における町の対比は、本作の重層構造によって描かれてきた主人公リーの過去と現在の対比と対応関係にあるのだと考えられます。

愛する家族がいて、人に囲まれた生活を送っていた過去のリーに相当するのが、ニューハンプシャー州の巨大都市“マンチェスター”です。

孤独に寂しく暮らしている現在のリーに相当するのが、マサチューセッツ州の寂れた町“マンチェスター・バイ・ザ・シー”です。

また、マサチューセッツ州の“マンチェスター”から“マンチェスター・バイ・ザ・シー”への名称の変化は、人に囲まれていた過去から、人との繋がりのない寂しい現在のリー自身の変貌とイコールと考えます。

素朴で変哲もない外見とは裏腹に、舞台になる町にもさりげなく高度な意味付を持たせ、映画を読み解く楽しみを多様に盛り込んだ本作。観た人すべてを魅了する、とまでは言わないまでも、孤独な誰かの心に染み入るような作品であることは間違いありません。

 

◆余談

ほんとに余談なんですけど、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の劇中でスタートレック論争がチラッとあります。前回の『ローガン』のレビューにて、いつかスタートレックに絡めたことを書きたいといった矢先に本作を観てたので、妙に感激しました。ほんとただの偶然でしょうけど。そもそも本筋と一切関係ない所でスタートレックの話がでてくるし……。

ちなみに、このレビュー内で「バーに独りで飲んでいる人間の心理には、人の輪の中にいたい欲求が隠れている」という理屈を使いましたが、これは新スタートレックの第五シーズン「流浪のベイジョー星人」より、バーで一人うちひしがれるロー・ラレン少尉に対し、ウーピー・ゴールドバーグ演じるガイナンがたしなめる際の発言から影響されたものです。

もしかしたら、ケネス・ロナーガンもそこから影響受けて、バーのシーンを入れたのかな?なんて深読み(多分違うか)をしました。

こんなマニアックな話をして、果たして通じるか不安ですが、誰かわかる人がいたらレスポンスください。