『鑑定士と顔のない依頼人』原題『LA MIGLIORE OFFERTA』レビュー ~真贋の選択 技巧の影に隠された意図~

 ◆基本情報

・2013年12月 日本公開 

・監督 ジュゼッペ・トルナトーレ 脚本 ジュゼッペ・トルナトーレ

・出演  ジェフリー・ラッシュ、 シルヴィア・フークス、 ジム・スタージェス、 ドナルド・サザーランド

 

◆あらすじ

凄腕の美術品鑑定士として知られているヴァ―ジル(ジェフリー・ラッシュ)は、奇妙な依頼を受ける。その相手は電話越しでしか依頼内容を伝えず、一向に姿を現さない。初めこそ苛立ちを覚えたヴァ―ジルだったが、謎めいた依頼人に好奇心が芽生え始める。その心情は徐々に恋心へと変貌を遂げることになる。

 

◆レビュー

今回レビューするのは、イタリアの名監督として知られるジュゼッペ・トルナトーレの作品『鑑定士と顔のない依頼人』です。とは言ったものの、私の不勉強で彼の作品はあまり観たことがないのが現状です。代表作である『ニュー・シネマ・パラダイス』だけは、10年ほど前に鑑賞したのですが、イマイチ記憶に残っていません。当時は全然共感できなかった印象だけはあるため、本作も苦手意識があったのですが、蓋を開けてみればそんな先入観など消え去りました。

劇中に登場する優美巧妙とした美術品の数々がそうであるように、本作は散らばまられた謎に彩られ、その点と点が流麗な曲線を描き、非常に精密な絵画のような仕上がりになっています。

なお、今回はミステリーというジャンルの特性上、ネタバレが気になる方も多いかと思われます。しかし、毎回読んでくれている方なら既にお気づきでしょうが、このブログのレビューは常にネタバレ全開で書いています。その辺の配慮は一切いたしませんので、ご了承ください。

まだ観てない方、もし可能ならばTSUTAYAかどこかでレンタルして、鑑賞の後このレビューを読んでいただければありがたいのですが、厚かましいでしょうか?

 

〈高雅な世界観〉

なんといっても本作の目玉の一つは、その世界観。美術品それぞれの放つ美麗な造形が、そのまま映画の外形の構築にも繋がります。芸術作品への視点、鑑定士ヴァ―ジルの口から語られる文学的ですらある批評の言葉はインテリジェンスの匂いを発し、ときに官能性をも滲ませます。

残念ながら、美術品周辺の専門知識がない私には、各々の持つ芸術的価値を測ることはできませんが、映画内における説得力を担保するには十分な情報が詰まっているのだといえます。本作の様に、ある特定の分野や職業を題材にするとき絶対的に必要なのは、実際の分野におけるディティールを追及できるのかという点です。その積み重ねが、作品全体の出来如何を左右します。

また、美術品のに関わる真贋を巡るやり取りが、後述する本作のテーマと繋がっているのが面白い。洒落た世界観を、ファッション的に楽しむだけに留めず、論理的な意味合いの下支えに役立てたところが、傑作足りえた所以です。

 

〈ヴァ―ジル、クレアの恋愛模様

初めに提示されるヴァ―ジルという男の人物像は、端的に言えば堅物、偏屈、傲慢といったところでしょうか。芸術への圧倒的な知識と、鋭い感性に裏打ちされた自負が肥大化し、周囲の人間にも尊大な態度をとります。長年かけて行った偉業が、彼の持つ人生観を頑ななまでに固定しているのです。

また、ヴァ―ジルは恋愛に関してはかなり奥手です。修理技師のロバート(ジム・スタージェス)がプレイボーイとして描かれているのと対比させてあります。

その強固な人生観を揺るがす人物が、本作の謎の依頼人クレア(シルヴィア・フークス)です。

ヴァ―ジルが彼女に惹かれたのは、そのミステリアスな存在感が大きく影響します。クレアは人間のもつ、知りたいという欲求を刺激し、妖艶な花の香りの様に誘惑します。美術品の奥に潜む価値を探求してきたヴァ―ジルの本質が、クレアの持つ魅力を見逃せなかったのは当然と言えます。そして、そのヴェールの裏には、ヴァ―ジルが持つどの美人画よりも美しい女性が隠れています。

他にもヴァ―ジルが惹かれた理由を挙げれば、クレアの持つ精神の歪さが重要です。彼女は広場恐怖症によって長年屋敷から出られないと語ります。クレアの閉鎖的な人生は、ヴァ―ジルの持つ人生観に通じるところがあり、その類似が彼を恋へとのめり込ませたのでしょう。ヴァ―ジルがクレアを外の世界に連れ出そうとするのは、彼も現状の自分の殻を破り、凝り固まった人生観を壊したい欲求に駆られていたことが想像できます。クレアの広場恐怖症とヴァ―ジルの潔癖症は同一線上の問題として位置づけられています。

ヴァ―ジルの変化を表す描写はいくつかあり、例えば髪の毛について。元々身だしなみのこだわりで髪を黒く染めていたのが、クレアとのやり取りに影響され白髪に戻す場面はわかりやすいでしょう。また、携帯を持たない主義も変えています。彼女と少しでも話したい、そんな心の動きは、初めて恋をした少年のようでした。

クレアがいなくなった展開のとき、競売の最中にも関わらずクレアが見つかったのかを確かめるため電話をし、失態を演じる様は滑稽です。彼の中で、長年続けてきた競売の仕事より、一人の女性の方が優先されていることがわかります。

 

〈ミステリー作品として〉

この作品のラストで明かされるのは、壮大な詐欺の物語です。

終盤まで描かれてきたヴァ―ジルとクレアを巡る恋の物語は、ロバートの筋書きによるものでした。ロバート、ビリー、クレア、サラ、ランバートは全員グルで、すべてはヴァ―ジルの自宅にコレクションされている大量の美人画を盗み出すための計画。その目的ために、ヴァ―ジルがクレアを追い求めるよう仕組まれていたのです。

そのオチを引き立てるために、劇中には多くの伏線が隠されていました。

まずは、バーにいる小人症の女性。彼女が数字に関して異常な記憶力を持っているのが重要な役割を担っています。クレアが失踪した展開の際に、ヴァ―ジルがバーで「あの屋敷から出てきた女性を見なかったか」と聞く場面があるのですが、その時小人症の女性は「231」と呟いています。後に明かされますが、クレアは広場恐怖症などではないため、自由に屋敷を出入りしていました。その回数こそがまさしく「231」です。また、実は彼女こそ屋敷の本当の持ち主である「クレア」だったことが明かされ、この本物のクレアの口から事の顛末が語られるのが憎い演出です。更に言えば、本物のクレアの存在自体が、詐欺を露見するヒントになりえるのに、ロバート達は特に彼女の存在を隠そうとはしません。

他にも、黒幕であるロバートを一度疑うよう、サラがヴァ―ジルを唆すのも、観客へのミスリードと、ロバートの心を弄ぶ効果を発揮します。

オチの際、美人画のある隠し部屋でヴァ―ジルをあざ笑うオートマタを、本人の目の前で組みあげるのも何とも大胆不敵。

このように大それた詐欺を働いているのに、あえてヴァ―ジルの目の前にヒントを提示するのは、ロバートらが一連の詐欺を芸術として捉えているためです。劇中のやりとりであるように、贋作者は必ず作品にサインを残すものです。ヴァ―ジルの信じ込んだ虚構の物語を、ロバートらは、自分たちが造り上げた作品であると誇示せずにはいられなかったのです。

踊り子の絵にサインを残していたのも同様の理由からといえます。

 

実の所、本作におけるどんでん返しのネタ自体はさほど新鮮なものと言えません。しかし、演出や丁寧に作り込まれた世界観によって、うまくお話として昇華できているのだと思います。ヴァ―ジルの恋心に感情移入し、甘美な物語に没入することで、謎の全容を予測することを忘れてしまいます。もっとかみ砕けば、この物語を愛おしく思えたからこそ、ミステリーとしての成功もなし得たのだと言えます。

 

〈贋作の価値〉

上記の通り、ミステリーとして十分な水準に達しているのは間違いありませんが、本作の真価は他にあります。

初めに提示された頑なだったヴァ―ジルの人生観は、クレアとの恋によって変貌を遂げ、実際の女性を愛せず絵画の中の美に愛を求めていた男が、痛みを伴う血肉の通った恋に魅了されていきます。その過程で鑑定士としての自分、つまりは本物の芸術に価値を見出すことに捧げてきた人生を放棄することも決意します。しかし、ヴァ―ジルが人生を投げ売ってまで得ようとしたクレアとの愛はすべて虚構でした。

本心では詐欺だとわかっていてもクレアとの愛を信じたい「いかなる偽物の中にも必ず本物がある」と信じたい思いから、彼女の思い出のカフェ「ナイト&デイ」で待ち続けます。但し、終盤に挿入されているその後の彼の人生からわかる通り、最後には老人ホームに入り孤独な生活をしており、クレアと再会は果たせなったことは明白です。

つまり本作は、「本物」の芸術に価値を見出してきた男が、晩年になって「贋作」の愛の価値を信じようとした物語。真実を見抜き孤独に過ごしてきた人生より、人生の晩年にみた虚構の愛情のほうが、ヴァ―ジルにとって大切なものだったのです。

美人画の中に描かれた美を愛でていれば傷つかずに済んだのに、それでも一人の女性を求めずにはいられなった、そんな人間の悲しい性を描いています。

そして、本作の真骨頂はミステリーのどんでん返しと、ヴァ―ジルの人生観の逆転が連動している点です。それはまるで騙し絵の様に、築き上げてきた世界観が覆った瞬間、彼のもつ人生観も同時に違った情景を映し出すのです。

 

〈私的な話〉

基本的にハリウッド映画大好き。

自分がイタリア映画と聞くと億劫になるのって、多分作品に関してのことだけじゃなく、イタリアという国自体への妙な憧れによるものなんでしょう。私の中でお洒落な国ナンバーワンがイタリアなので、なんというか渋谷の洋服店に入るときの場違い感に似ている気がする。その点、アメリカ映画だと馴染み深いため、それこそファストフード店に入るぐらいの気持ちで観れますね。ちなみに、邦画だと食べなれない和菓子のようなもので、かえって手が出しづらい心持になります。