『セッション』原題『Whiplash』レビュー ~天才の完成 最終場面の解釈を巡って~ 

◆基本情報

・2015年日本公開 

・監督 デミアン・チャゼル 脚本 デミアン・チャゼル

・出演 マイルズ・テラー、 J・K・シモンズ

 

◆あらすじ

全米一の名門音楽学校に入学したアンドリュー(マイルズ・テラー)は、そこで随一の指揮者フレッチャー(J・K・シモンズ)に目をかけられる。しかし、アンドリューを待っていたのは、鬼教師フレッチャーの過酷なレッスンだった。次第に精神をすり減らしていくアンドリューはついに限界がきて、ある演奏会の場でフレッチャーに殴りかかってしまう。その出来事を契機に学校を辞めたアンドリューだったが、フレッチャーの誘いにより、再び音楽の世界に身を投じることになるが……。

 

◆レビュー

今回レビューするのは、本年度(2017年度)大いに話題になった『ララランド』のデミアン・チャゼル監督の出世作『セッション』です。

この作品は2015年度のアカデミー賞三部門を受賞したほか、公開当時から様々な論争を巻き起こるなど注目を集めました。そのため、評論や感想は出尽くした感がある作品ですが、あえて私はこの作品のレビューをしようと思います。というのも本作の最終場面の解釈に関してどうしても言いたいことがあるからなんです。

 

〈アンドリューを取り巻く環境〉

元々アンドリューという青年は比較的おとなしい人物として描かれ、常識とある程度の社交性を持っています。父親と仲良くに映画館に行くところはのどかですし、人並みに恋をするのは普通の大学生と同じようです。

但し、その日常の中でも野心の片鱗を見せています。恋人のニコールが具体的な目標を持たずに大学を決めたことを聞いたシーンでは、すこし怪訝な表情を浮かべています。アンドリューの潜在的に持つ野心と、彼女の考えとの乖離が見て取れます。

親類との食事会では音楽業界自体を過小評価され、大学で一番下のリーグのアメフトMVPの方が評価されます。音楽で偉業をなすことを目指しているアンドリューにとって耐えがたい苦痛でしょう。しかも親類だけならまだしも、信頼している父親からも理解を得られないことがこのシーンでわかります。

アンドリューは穏やかだけれど、決して自分の才能を評価されない環境の中でくすぶっていた。その中から抜きん出ようとする渇望がわかります。

 

〈過酷なレッスン〉

本作で際立って描かれるのは、執拗で暴力的なまでのレッスンです。そのレッスンでは二つの側面からアンドリューを追い詰めていきます。

第一に肉体的な側面に関して。

最もよく表れているのは、中盤でドラムの三人を何度も交代させながら体力の限界になるまで演奏させ、徹底的に追い込むシーンです。テクニックを磨く目的というよりもただ体を苛め抜くことが目的になっています。薄暗い空間の中に怒号とドラムの音だけが永遠鳴り響き、苦悶の表情が印象的です。そして、手の平からにじみ出た血が痛々しく映ります。このシーンに限らずですが血の見せ方がうまく使われており、アンドリューがいかに過酷な練習をしてきたのかが視覚的に表現されています。

第二に精神的な側面に関して。

レッスン中、フレッチャーは相手を怒鳴り散らして支配する手法を使っていますが、それだけではありません。ドラムの主奏者の席を奪い合うようにアンドリュー、タナ―、コノリーの三人を競わせる構造を作り上げているのです。フレッチャーは暴力的なだけではなく、心理的に相手を操る術を駆使していることが分かります。

本作の全体にある切迫感は、アンドリューの感じている精神的な揺らぎが観客に伝わっているからだと考えられます。それはマイルズ・テラーの演技による表情の変化、初めはどこか間抜けでお人よしそうだった青年が徐々に目の奥に狂気を滲ませていく様に表れています。アンドリューがバスに乗った際に、ぶつぶつと一人ことを言っているシーンや、他の演奏者に強くあたり散らすシーンで彼の変わり様が伺えます。

 

フレッチャーの過去〉

劇中彼の教え子が自殺してしまったという連絡が入るシーン。フレッチャーは心の底から自責の念を抱いていることが分かります。彼の目的はどこまで行っても天才を作り上げる事だと言えます

フレッチャーが、チャーリー・パーカージョージョーンズのエピソードを語るシーン、彼は言います。この世で一番危険な言葉は「上出来だ」なのだと。絶対に音楽に妥協しないことが天才の必須条件であると彼は語っているのです。

 

〈ラストの演奏〉

最後の演奏前にフレッチャーは罠を仕掛けます。アンドリューにわざと演奏するのとは違う曲を伝え、彼に恥をかかせたのです。このシーンでは大きく二つの解釈が可能です。というよりも作り手の意図として、解釈に選択肢を持たせるような構造になっているのです。

一つ目はフレッチャーが、自分を密告をしたと思っているアンドリューに対して純粋に復讐する目的で罠を仕掛けたという解釈です。

そして二つ目は、フレッチャーは自分を憎ませるようにアンドリューに仕組み、アンドリューが再び立ち上がるのを見越してあえて、罠を仕掛けたという解釈です。つまり、フレッチャーは演技をしていたということになります。

この解釈を紐解く上で私が注目したのが、アンドリューの代わりのドラム奏者が不在であるという事実です。

あの演奏会はフレッチャーにとっても名誉がかかったもので、そこでの失敗は彼自身にも相当な痛手のはずです。フレッチャーがあくまで復讐だけを目的としていた場合、当然に代打のドラム奏者を用意していなければ、その後の演奏は成り立たなくなってしまいます。

またフレッチャーは以前より、競争原理によって生徒を支配する手法を使っていました。そのことも踏まえると代わりの演奏者がいたほうが、アンドリューへより強い精神的なダメージを与えられると考えそうなものです。

これらは明らかに不自然です。つまり、フレッチャーは代わりの奏者が要らないことが分かっていた。アンドリューが必ず戻ってくることを確信していたからに他なりません。

フレッチャーがここまでしたのは、アンドリューを「何もない孤独な状態」に追い込むことが目的だったのだと考えます。

アンドリューは恋人と別れ、父親とも距離ができていきます。そんな彼に残っていたのは、音楽とフレッチャーだったのです。アンドリューはフレッチャーをただ憎んでいただけではなく、自分を導いてくれる存在として依存していたのでしょう。最後アンドリューには何もありません。自分の存在をかけて演奏するしかアンドリューには道が残されていなかったのです。

劇中アンドリューの口からも語られているように、チャーリー・パーカーは孤独なまま死を迎えました。偉大になるには一つの分野に徹底して打ち込むしかありません。その為には周囲の人間など邪魔でしかなく、結果的に孤独であることが天才の条件の一つなのかもしれません。

ラストの演奏の前半はあくまでフレッチャーの予想の範囲内の出来栄えだったのが、後半それを超えた次元の演奏を披露します。フレッチャーの表情の変化が、それを如実に物語っています。

あの演奏シーンに心をわしづかみにされた観客は大勢いたことでしょう。それは演奏の途中で真の天才があの場に誕生したからです。狂気の先にある圧倒的なカタルシスには誰もが飲み込まれるのです。

 

◆私的な話

デミアン・チャゼル監督は『セッション』『ララランド』で完璧に監督としての地位を確立しましたね。共に音楽を題材にした傑作だったのですが、驚くべきは次回作に宇宙飛行士の伝記ものを選んだことです。今までの作品は監督の経験が大きく反映されたものになっていただけに、全く違う趣向の作品を作ったらどうなるのかすごく楽しみです。あんまり予想がつかないという意味もありますが……。

あと、レビューへの反応があればうれしいです。『セッション』みたいに解釈の余地が残されている作品の方が、人と意見を言い合ったりで楽しめます。よろしくお願いします。