『ドント・ブリーズ』原題『Don't Breathe』レビュー ~倫理と金の物語~

◆基本情報
・2016年日本公開
・監督 フェデ・アルバレス ・脚本 フェデ・アルバレス、 ロド・サヤゲス
・出演 ジェーン・レビィ、 ディラン・ミネット、 ダニエル・ソヴァット、 スティーブン・ラング

◆あらすじ
盲目の老人宅に大金があることを知った若者三人は、強盗に入ることを決める。当初の計画では簡単に事が済むはずだったが、老人の抱える秘密が明かになり……。

◆レビュー
〈ホラー映画としての到達点〉
この作品に一貫してあるのは、ホラーとしての緊張感です。さほど過激な描写を入れていないのに、常に急き立てられるような張りつめた空気が伝わります。
よくホラー映画で幽霊やら殺人鬼に追いかけられた末、押し入れなどに身を隠してやり過ごすシーンがあります。あのようなシーンにハラハラとした緊張感があるのは、今にも敵対者に見つかってしまうという、薄氷を踏むかのような状況設定がなされているからです。
その点で本作は、「盲目」という設定により、敵対者が目の前にいるのにギリギリ接触しない状況を造り上げることに成功しています。それにより、本来なら刹那的なはずの緊張感を、常時保ち続けることができているのです。
他にも個別のシーンそれぞれに意匠を凝らしてあります。
マニー(ダニエル・ソヴァット)が盲目の老人を眠らせに行くシーン。老人は先程まで眠っていたのに、マニーが一瞬目線を切ると、ベットから体を起こしています。テレビでは老人の一人娘の幼い頃の映像が流れており、その声がかえって不気味に響きます。
地下室で老人がブレイカーを落としたシーンでは、今まで優位を保っていた若者二人が、老人と同じ条件に追い込まれ、緊迫感のベクトルが変わります。
ラスト20分間では、一度脱出できたロッキー(ジェーン・レビィ)が犬に襲われ、その難を逃れた矢先に再び捕まるなど、二転三転する構成力を見せます。この映画は、正味一時間半もないにも関わらず、終盤付近では「流石にもう終わってくれ」と思うほどの疲労感があります。(いい意味でです)
エンターテイメント性の追求という意味では、抜群の出来だと言えます。

〈それぞれの倫理〉
本作はキャラクターの掘り下げに伴う人物造形もしっかりしています。そこから浮かび上がるのは、彼らの抱える人生と倫理観です。
ロッキーは苛烈な家庭環境の中で妹を守るために盗みに手を染めています。
アレックスは父のセキュリティ会社の情報を利用するも、その父に迷惑をかけられないといった一面を見せます。また、1万ドル以上は盗まないといった線引きをするなど、むしろ理知的で好青年な印象すら感じます。
一番粗野なイメージのマニーですら、老人に最後まで威嚇射撃しかせず、死に際に仲間を庇う様子を見せます。
彼らには事情を抱えながらも犯罪をしてしまう人間臭さがあります。ひいては、人間としての倫理観を保ち、その一線を踏み越えない人物たちとして描かれています。
対する老人も異常性の際立つ描写はいくらでもありますが、背景に娘を失った悲しみも抱えています。
そして令嬢への報復の手段にも、ある種の筋の通し方も伺えます。そのため、老人にも理解できる部分があります。
老人と強盗三人組との戦いは、それぞれが抱える倫理観のぶつかり合いでもあるのです。

〈金の問題〉
盲目の老人があそこまでの異常者になったのは、娘を殺した令嬢への怒りだけだったのしょうか?
そもそもこの物語は、老人宅に多額の示談金があることに端を発しています。しかしよく考えれば、この設定自体に矛盾があることがわかります。
老人が令嬢を監禁し妊娠させたのは娘の代役を求めた為。理論上、それだけで老人の復讐は完成されるはずです。しかし老人が示談金を受け取ってしまえば、憎むべき相手からの施しを受け入れたことになってしまいます。
また、老人は反社会ではあれど、彼なりの筋の通し方にこだわりを持っていることは明らかです。
この矛盾を踏まえて考えれると、老人には、愛する娘を殺した相手に迎合し、金を受け取ってしまった後悔があった。つまりは、金の誘惑に屈服した自分自身への怒りが、老人の異常者へと掻き立てたのではないかと推測できます。
ラストシーン、ロッキーは選択を迫られます。
警察に通報した直後、その場に留まりあの家で行われた出来事を明らかにする道、あるいは金を持って逃走する道です。そして後者を選びました。彼女はあれだけ悲惨な出来事にあいながらも、金を得ることを選びました。
彼女が前者の道を選んでいたならば、アレックスとマニーがただの強盗として死んだのではないこと、老人がただの盲目の被害者ではないことが明らかになっていたことでしょう。
物語の結末は大きく変わっていたことになります。

結論として、本作で描かれているのは、倫理観に葛藤しながらも、金に翻弄される人間の物語です。人間の持つ強欲さが罪の始まりであるのだ、というテーマが隠されていると考えます。

娯楽性を楽しむも良し、テーマ性を紐解いても良しの本作は、多くの人におすすめしたいです。但し、色々とエグい描写も多いので、その点だけ注意をしてください。

◆私的な話
本作で盲目の老人を演じていた俳優は、スティーブン・ラングという方で、調べたらそこそこキャリアを積んでらっしゃいました。
ただ、この人を初めて見てモーガン・フリーマンだと思い込んだのは私だけではないはず……

『ブルックリン』原題『Brooklyn』レビュー ~社会を生き抜くことの代償~

◆基本情報

2016年日本公開

・監督 ジョン・クローリー ・脚本 ニック・ホーンビィ

・出演 シアーシャ・ローナン、 ジム・ファレル、 トニー・フィオレロ

・配給 20世紀フォックス

 

◆あらすじ

アイルランドの田舎町でくすぶっていたエイリッシュ(シアーシャ・ローナン)は、姉のローズの勧めでアメリカのブルックリンに移住する。慣れない土地や人に悪戦苦闘しながらも、少しずつ成長をしいく。その矢先に、故郷のアイルランドから姉が亡くなったとの便りがくる。

 

◆レビュー

2016年度アカデミー賞、作品賞、脚色賞、主演女優賞ノミネート。

本作はアイルランド・イギリス・カナダの合作だそうです。なるほど、その情報を知って本作のスタイリッシュな絵面に納得しました。ついでにもう少し調べたら、一般の観客と批評家の両方からの評判が上々の様子です。

そして私もこの映画全面的に支持します。その理由として、衣装や美術のディティールの華やかさとは裏腹に、綺麗ごとだけじゃすまない現実に即したテーマを内包していることがあります。

 

〈ケリーの人物像〉

アイルランドで雑貨店の店主をしているケリーは、非常に意地が悪い人間として描かれています。エイリッシュへは冷たく接し、自分の店であるのをいいことに、客の買い物にも口出しをして横暴な態度をしめしています。しかし、ケリーはただ単に嫌な側面だけを持っているわけではありません。同じシーンで、常連さんと思しき女性を優先させています。ここから、狡猾で計算高い人物像が分かります。このような世渡りの術を心得ているからこそ、店主として生き残ってこれたのかもしれません。

また冒頭の数分間の合理的かつ何気ない描写で、ケリーの人物像を表した監督の腕前に感心しました。

 

〈エイリッシュの変化〉

初め彼女は不器用でおとなしい少女で、新しい環境に適応できていませんでした。そこから大学で簿記の勉強、トニーとの恋を通じて変化していきます。まずはその変化の例を主に三つ挙げます。

一つ目は、仕事に関して。

初めはぎこちなかったのが、見違えるような対応を習得しています。自分に自信をもって喋っているため、お客さにもそれが伝わっていることがわかります。

二つ目は、人間関係に関して。

同居人の小姑のような二人組から嘲笑さても黙って耐えるしかなかったのが、彼女らとうまく付き合うようになっています。ただし注意すべきは、この関係性の変化には代償が伴っているということです。下宿先に新入りの少女が入ってきますが、この子を排除することでエイリッシュは自分の立場を確保しました。その証拠がダンスパーティーのシーン。小姑二人からトイレに呼び出され、口紅を塗ってもらいます。このワンシーンだけで、今までの対立の関係性でなくなったことが把握できます。その後の下宿先での食事のシーン、彼女らとエイリッシュが談笑する傍らで、新入りの少女は僅かに居心地悪そうにしています。微妙な心理の機微を的確に捉えた描写になっています。

また、恋人のトニーからダンスパーティーから抜けださないかと持ち掛けられた際には「同じ寮の子だけど、ひどいの」などと言い、新入りの少女を置き去りにしています。

このように誰かを排除すること、もっと言えばいじめることで仲間内の連帯感が増すメカニズムは、現実の社会でもよく見られる光景です。

三つ目は、恋愛の巧妙さに関して。

アイルランドにいた頃の彼女は恋愛に奥手な少女でした。ダンスパーティに行っても男性から誘われず、そのまま帰ってしまいます。エイリッシュの寂しげな心情は、少し長めの彼女の表情のショットで映像的に表現されています。

ところが、ブルックリンではトニーと恋人になり、スムーズに婚約までこぎつけます。ここまでなら特に問題ないのですが、エイリッシュがアイルランドに帰省してからが肝心で、トニーという別の男性と出会い恋愛関係になります。二人の男性を天秤にかける計算高さが伺えます。

エイリッシュは強い女性に成長した反面で、以前の純真さを失ってしまったのです。

 

〈二人の対決シーン〉

エイリッシュとケリーの対決シーンは本作のクライマックスにあたります。

エイリッシュが「私の名前はエイリッシュ・フィオレロ」と毅然と言い放つところは、カタルシス溢れる名場面になっています。それは、傲慢で狡猾な魔女を打ち負かしたところに爽快感があるのですが、どこか釈然としない部分もあります。なぜならば、実際はエイリッシュの不誠実な落ち度があったために、ケリーに追及されてしまったからです。

上記のエイリッシュの人物像で述べたように、彼女もまた狡猾な側面を持っています。つまりはエイリッシュも、少なからずケリーと同じような人間になったのだと言えます。ケリーはエイリッシュの負の側面を投影した人物になっています。

エイリッシュはケリーに対抗できる人間になったというよりも、対抗できる人間になってしまったと言ったほうが正確でしょう。

社会で生きていく為には綺麗ごとだけでは済まないことばかりです。女性の社会的立場が極めて弱かった時代背景を考えれば、なおのことでしょう。その世界の中では純真なままではいられないのだ、というのが本作の主題だと考えます。

 

〈ラストの船出のシーン〉

エイリッシュが初めてブルックリンに渡る船の中で、相部屋になる女性と話します。彼女は初め無関心な態度でしたが、エイリッシュが船酔いになり、別の部屋の人間から嫌がらせを受けていると知ると、急に親切になります。また、初めは譲らなかった二段ベットの一段目を、さりげなく譲っていることにこの女性のやさしさが隠されています。

エイリッシュは、この女性からブルックリンで暮らすうえでの心得を教えてもらいます。劇中終盤にエイリッシュがブルックリンにに帰るとき、同じくブルックリンに移住する少女にこの心得を伝えています。また、この二つのシーンは意識的に同じ造りになっており、エイリッシュの成長をを測る役目を果たしています。

終盤の船のシーンでエイリッシュが少女に優しく接していたのは、以前の自分の姿を重ねたため。純朴だった少女の頃の自分には二度とは戻れないのだ、という感情があったからだと考えます。また、あの少女の純朴さも、エイリッシュと同じように現実を生きるなかで消えていくものなのでしょう。

郷土への思い、自分へ追走、そういったものを抱えながらもブルックリンで生きていくことを決めた一人の女性の姿が、最後には描かれているのです。

 

綺麗ごとだけでは済まない現実を見せながらも、それに立ち向かう一人の女性の姿に心を動かされます。そしてエイリッシュの成長の軌跡は、大人になった人間ならだれもが身につまされる思いがするのではないでしょうか?

このリアリティ溢れる部分にこそ、本作の人気の秘密が隠されているのだといえます。

 

〈私的な話〉

私は権威主義とかあまり好きじゃないのですが、何やかんやでアカデミー賞に絡んだ作品に目がいっちゃいます。というのも、やっぱり面白いからなんですよね。結局何かしら見所がなくちゃノミネートされないですもんね。

ちなみに、アカデミー賞は純粋に作品の質に基づいて決まるのではなく、アメリカの社会情勢が密接に関係したものです。初めこのことを知った時は、なんだか釈然としませんでした。今はその辺の事情も含めて楽しむようにしています。

『きっと星せいじゃない』原題『The Fault in our star』レビュ― ~途中で終わった物語とは~

 ◆基本情報

・2014年日本公開

・監督 ジョシュ・ブーン ・脚本 スコット・ノイスタッター/マイケル・H・ウェバー

・出演 シェイリーン・ウッドリー アンセン・エルゴート

・配給 20世紀フォックス

 

◆あらすじ

ヘイゼル(シェイリーン・ウッドリー)は末期がんにより、幼少期より自由な生活ができなかった。学校にも通えず、友達もいない日々を過ごしていた彼女だが、グループセラピーに参加した際、骨肉腫をを克服した少年ガス(アンセル・エルゴート)と出会う。次第に惹かれ合っていく二人だったが…。

 

◆レビュー

難病物の恋愛映画という、ありふれたジャンルですが、よく作りこまれていました。この作品は人の死、そして死によって取り残される人々の「その後」にフォーカスが当てられています。

〈二人の人物像〉

物語の序盤で語られるのは、ヘイゼルの退屈で孤独な日々です。同じ年頃の子が堪能している青春をほとんど得ることのできない日々。その象徴として毎日同じ本ばかり読んでいることが描かれています。そして、その日々を変えたのがガスと出会いだった。彼から勧められたSFゲームのノベライズ本を読んでいることこそ、彼女が決まりきった日々から抜け出し、違う世界に足を踏み出した変化の象徴となっています。

一方のガスは、一見病気を克服した明るい青年のように見えます。表面上彼は弱みを見せることはほとんどありません。しかし、細かい点に彼の弱さが現れています。グループセラピーで語っていたように彼は「忘却」を恐れていました。人々の記憶に残る人生を送りたいということは、自分の死後のことを想像しての発言です。

また、火のついていない煙草をくわえるのは、命を奪うものへの抵抗の意味があるためです。ガスが飛行機に乗るときに煙草をくわえていて、キャビンアテンダントに注意される場面があります。これは飛行機が墜落するのではという死の恐怖を紛らわしたかったからでしょう。

つまり彼自身、本当は死の恐怖から逃れられていなかったのです。

 

〈結末のない本〉

二人の物語を語るうえで重要なキーアイテムになるのが、ヴァンホーテン(ウィリアム・デフォー)の本です。

劇中でヘイゼルは、結末が描かれず途中で終わってしまったこの本に異様に固執し、その後の登場人物の事を知りたがります。なぜならば、自分自身と同じだからです。つまり、結末のない本に、がんによって若く死んでしまうであろう自分を投影し、重ねていたからにほかなりません。自分の死後家族はどうなってしまうのだろうか?自分の人生に意味はあったのだろうか?その答えを知りたいという願いが、無意識のうちに彼女の行動原理となっていたのです。

実際、本の著者であるヴァンホーテンも娘を白血病で亡くしています。そのため、娘をモデルにしたアンナの物語の続きを書くことができなかった。ヴァンホーテンがヘイゼルと初めて対面したときに侮辱したのは、自分の娘とヘイゼルを重ねたためです。

 

〈トロッコ問題の意味〉

ガスの葬儀の直後、ヴァンホーテンが言いかけたトロッコ問題について触れておきます。

ロッコ問題とは、路線上に止まることの出来ないトロッコがある。このまま進めば路線上の五人が死ぬ。しかし、ある人物が分岐器のすぐ近くにいる。進路を切り替えれば、五人は助かるが、切り替えた先にもう一人の人物がいて、その人物は助からない。という状況を想定しての倫理学の問題です。

この問題で確実に言えるのは、誰かの犠牲によって救われる人間もいるということです。

ヴァンホーテンは「途中で終わってしまった物語=死」によって、救われる何かもあると言いたかったのではないでしょうか?

 

〈二人の答え〉

ヘイゼルが求めていた答えは、ガスによって導かれます。

ガスは元々多くの人間の記憶にとどまることを求めていました。しかし、死に際にヘイゼルたった一人と愛し合ったことこそ意味があったのだと手紙に書いていました。もちろんヘイゼルも同じように感じていたことは明らかです。ガスが死んでも、ヘイゼルには二人の愛し合った記憶は残る。それだけで彼の人生に意味があったものだと言えます。

ヘイゼルが近い将来死を迎えても、ガスと出会えたことこそが意味になりえる。また、彼女の家族の記憶にも、ヘイゼルとの思いで刻まれるだけで意味があります。

ヘイゼルは皮肉にも大切な人の死によって、「途中で終わった物語のその後」つまりは「残された者の物語」を体験することとなりました。この点が上記のトロッコ問題と係っています。

 

冒頭、ヘイゼルの語りにあるように悲しい物語をどうやって語るかは本人次第です。人の死も、自分の死もどう捉えるかによって意味が変わります。

本来悲しい物語を美しく、ときにユーモラスに語った本作は紛れもなく傑作でしょう。

 

◆私的な話

恋愛映画というジャンル自体ちょっと苦手なんですよね。客観視して作品として見る分には大丈夫なんですが、主観的にはあまり入り込めないというか……。まあ、一般的な男の映画好きなんて大概そうですかね。

でもこの作品を見て、そんな偏見を捨てもっと鑑賞していこうと思えました。未開拓のジャンルなので、今後、私の知らない傑作たちと出会えるかもしれません。

『ドクター・ストレンジ』原題『Doctor Strange』レビュー ~別の生き方とは~

 ◆基本情報

・2016年1月日本公開 

・監督 スコット・デリクソン 脚本 スコットテリクソン、C・ロバート・カーギル

・出演 ベネディクト・カンバ―バッチ 

・配給 ディズニー

 

◆あらすじ

傲慢だが、天才的な技術をもつ外科医のストレンジ(ベネディクト・カンバ―バッチ)は、金も名誉もある生活を送っていた。しかし、ある事故により外科医の生命線とも言える両手に、致命的な怪我を負ってしまう。何度となく手術を繰り返し、両手の回復を試みるがすべて失敗に終わる。そんなとき、チベットに治療不可能の傷を治せる魔術師がいることを知る。そこで待っていたのは、現実の世界と別の次元をも巻き込む戦いだった。

 

◆レビュー

〈圧倒的な映像美〉

本作の見どころは、やはりその映像表現にでしょう。クリストファー・ノーランの『インセプション』を彷彿とさせる四次元的な空間を、これでもかと披露しています。この映像表現の真骨頂は高層ビルが立ち並ぶニューヨークのシーン。重力のベクトルが縦横前後と自由に変化し、ビル街のガラスが反射する様子と相まって幾何学的な世界観を構築しています。

こう言ったシーンの連続で、純粋に視覚で楽しめる作品なのは間違いありません。

 

〈コミカルさ〉

また、映像表現に肉付けしているのはコミカルなシーンとのバランス感覚だともいえます。作品内でミラーディメンションでは、現実世界に影響を与えないといった設定があるのですが、この設定がうまいこと機能していました。主人公たちが決死の戦いを繰り広げているのに、すぐ隣で何気ない日常を送っている人々がいて、そのギャップが妙な可笑しみを浮き上がらせています。このバランスこそが本作の基本スタンスで、マントとの絡み、ちょっとした会話のやり取りでも、シリアスになり過ぎないように調整されています。エンタメ系映画のお手本のような造りだと感じました。

 

〈その他〉

他のアクションシーンでは、ストレンジが幽体離脱しているときにAED(自動体外式除細動器)を使って敵を倒す場面などアイデアが面白かった。単に派手なCGに頼るのではなく、どんな場面で使えばよいかの選択もなかなかうまい。

映像にばかり気を取られがちですが、意外に小技も効いています。ストレンジが事故で手に怪我を負い、落ちぶれていくのを手洗いのシーンや、髭剃りと髭の伸び具合などで表しています。少しベタですが、そこに説得力があるのは、カンバ―バッチの演技と魅力によるところが大きいと感じました。

ちなみに、本作の主人公の「傲慢な天才」といったキャラクターは、カンバ―バッチの近年の出演作「シャーロック」「イミテーション・ゲーム」「スタートレック イントゥダークネス」といった作品群の中で確立してきているように思える。彼の持つ知的な雰囲気がこのような役にマッチしているのは間違いありません。

 

〈最後に〉

結局、主人公は自らの手を治すことは叶わなかった。しかし、本来の目的とは別の、魔術師として生きていく未来を選択した。それは最後、ストレンジがボロボロに傷つき震えている手に、恋人から送られた腕時計をつける場面に集約されています。

失ったものは取り戻せないが、もう一度立ち上がる人間の尊厳を描いた作品に仕上がっています。

惜しむらくは、このドラマパートをもう少し掘り下げても良かったように思えます。その点を差し引いても十分見応えのある作品でした。是非お勧めしたい。

 

◆私的な話

実は私はベネディクト・カンバ―バッチのファンです。初め、彼に対して渋めの演技派英国俳優というイメージをもっていました。最近になり、ハリウッド大作への出演が目立ってきて、妙に寂しく感じるのは私だけでしょうか?

ビックバジェット映画も良いんですけど、何というか、彼には地味だけど味のあるインディペンデント映画が似合っていうように思えます。そんな風に思うのは、知性派なイメージが先行してしまったための幻想かな。

「クリード チャンプを継ぐ男」レビュー ~世間の視線と自分自身~

◆基本情報

2015年日本公開

・監督 ライアン・クーグラ ・脚本 ライアン・クーグラ アーロン・コヴィントン

・出演 マイケル・B・ジョーダン シルベスター・スタローン

・配給 ワーナー・ブラザーズ

 

◆あらすじ

伝説のボクシングヘビー級チャンピオン、アポロ・クリードの隠し子であるアドニス・ジョンソン(マイケル・B・ジョーダン)は、大人になり経済的には裕福な生活を送っていた。しかし父親の存在から、彼はボクシングの世界への思いを断ち切れずにいた。アドニスは今の生活を捨て、かつての父の盟友であったロッキー・ヴァルボア(シルベスター・スタローン)にトレーナーになってくれるよう懇願しに行く。

 

◆レビュー

〈「ロッキー」との比較〉

本作は「ロッキー」シリーズの踏襲を一通りしています。鶏を追いかけるシーン、フィラデルフィア美術館の階段、そしてネタバレになりますが、ラストの試合結果などが顕著でしょう。

しかし、このようなオマージュから何歩か踏み込み、試行錯誤したことが、本作の素晴らしさのひとつだと言えます。

例えば、アドニスの生い立ち。幼少期は貧困にあえぎ、義母と暮らす内に裕福な生活を手に入れる。しかしそこから更に、仕事も金も家族も振り払い、過酷なボクサーへの道を目指していく様はある意味「ロッキー」よりもハングリーなのかもしれません。

 

〈時代性〉

スマホクラウドといった単語がポンポン出てくるところも時代背景をしっかりと反映させています。その点のロッキーとアドニスのジェネレーションギャップがギャグとして成立しているのもうまい。あの時のロッキーの反応も妙にキュートに映ります。

また、本作のヒロインにあたるビアンカの扱いに重点が置かれているのも現代的と言えます。

 

〈それぞれの闘い〉

上記のような比較をするだけでも十分面白いのですが、作品単体で見ての完成度とメッセージ性も確かなものになっていると思います。

この作品では人生にもがき、戦い続ける者の姿が克明に描かれています。

主人公のアドニスは自らの生い立ちに苦しみ、答えを見出そうとしています。自分が隠し子であることの負い目がありつつも、同時に偉大なボクサーである父への憧れがあった。彼がYOUTUBEの動画をスクリーンに映し、ロッキー対アポロ戦を見ていた場面。アドニスは見ているだけでは飽き足らず、自分もスクリーンの映像に合わせてパンチを繰り出します。しかし、その時の彼の動きは父アポロの動きにシンクロしているのではなく、明らかにロッキーの動きにシンクロしているのです。偉大だが憎むべき相手でもある父への挑戦と葛藤が見て取れます。

晩年を迎えたロッキーは、病気と老いに立ち向かいます。それは愛する人たちを失ってきた人間の最後の闘いなのでしょう。今まで激闘を繰り広げていたボクサーが、力なくうなだれる様子は、心を締め付けます。リングの上で戦っていた姿がかっこいいのは言わずもがなですが、闘病する姿もそれに匹敵するぐらいかっこいい。アカデミー賞助演男優賞ノミネートも頷けた。

ビアンカもただの恋人という役割ではなく、進行性難聴というハンデを抱えながらも夢を目指す一人の挑戦者なのです。彼女も目の前の困難に立ち向かう人間だからこそ、アドニスと惹かれ合った。この手の映画では恋愛要素が取ってつけたようになりがちですが、ビアンカの存在によって物語に厚みが出ています。

 

〈最強の敵とは〉

それぞれの登場人物が抱えるドラマの答えは、劇中ロッキーのセリフによって語られます。鏡を前にしたアドニスに向かって「これは最強の敵だ」と。

こここそ本作の最大のメッセージだと考えます。

アドニスがクリードの名を隠すのは、出生の秘密を世間や他人から非難されるのを恐れていたからです。だからこそ、ビアンカの出演するライブ会場で、「アポロジュニア」と言ってきた男に殴りかかってしまった。このシーン、柄こそ悪いが相手の男は悪気があったようではない。問題は彼の内面なのです。

そのコンプレックスを解消するきっかけは、上記のシーンの少し後ににあります。暴力沙汰を起こしてロッキーとビアンカと決別した直後、道端で途方にくれていたアドニスに、通りすがりの黒人青年が声をかける。「あんたアポロの息子なんだって?頑張れよ」そう言って、さっさと立ち去ってしまいます。このシーンは、プロット上の起承転結の転に当たる重要な位置にあります。なぜそんな重要なシーンで見ず知らずの人間を登場させたのか?要するに、アド二スが気にしていた世間や他人の視線など、良くも悪くもこの程度のものなのだと端的に表現しているからです。闘うべき相手は、世間からの視線や評価などではなく、自分自身なのだと理解したからこそ、アドニスは再び立ち上がれたのでしょう。

アドニスがアポロの名の入ったトランクスを身に着けて戦ったのは、もはや名前などにこだわっていないため。父の名や周囲など気にせず、自分の為に戦ったアド二スは本当の意味で自分を肯定することができたと言えます。

 

これだけのカタルシスを味わえる映画はそうそうありません。旧作のファンも、一見さんも是非お勧めです。

 

◆私的な話

私的というか、作品の質にも関わってくるところなんですが、アドニスの最後の試合の相手に関して。もう少し体鍛えてからの方がいいのでは?ボクサーというより、中年レスラーの体つきだった……。マイケル・B・ジョーダンの体つきが完璧すぎて、余計にアレな感じになっていると思う。

いや、顔つきとかはいかつくて、雰囲気あっただけに残念です。

 

『6歳のボクが、大人になるまで。』 原題『BOYHOOD』 ~構成美で語る、大人になるとは~

本ブログ初のレビューは、2015年のアカデミー賞作品賞にノミネートした『6歳のボクが、大人になるまで。』です。

できるだけわかりやすく独自見解を発表します。

◆基本情報

2014年日本公開

・監督 リチャード・リンクレーター ・脚本 リチャード・リンクレーター

・出演 メラー・コルトレーン、 ローレライ・リンクレーター、 パトリシア・アークレット、 イーサン・ホーク 

 

◆あらすじ

六歳のメイソン(メラー・コルトレーン)は、母のオリヴィア(パトリシア・アークレット)、姉のサマンサ(ローレライ・リンクレーター)と三人で暮らしていた。今後の生活を憂いたオリヴィアは、大学に戻るために引っ越すことを決める。その後オリヴィアは再婚し、メイソンには新しい環境の中で成長することになる。

 

◆レビュー

本作は制作過程の特異性から注目を集めました。12年に渡って同じ俳優達が同じ役を演じ、作品を完成させたという、フィクション作品としては実験的な背景をもっているからです。この制作方法の狙いは、メイソン役のメラー・コルトレーンの6歳から18歳という多感な時期の変化を記録することにあります。また、この狙いは姉のサマンサ役のローレライ・リンクレーターにも当てはまります。

この作品が素晴らしいのは、ともすれば奇をてらっただけにも思われがちな制作手法を、しっかりと機能的にコントロールしているからだと考えます。

 

〈視点と構造〉

この作品はネイソンの視点に合わせて、世界の見え方が変わっていく。

例えばネイソンの趣向に関していえば、幼少期はアニメやゲームが好きだったのが、スポーツや映画に興味を持つようになり、写真と芸術に行きつく。子供が成長する上での普遍的な興味の移りかわりをさりげなく見せています。

他にも、母が一回目の再婚をする直前と二回目の再婚をする直前に、それぞれの再婚相手と母が談笑している場面をネイソンは目撃しています。一回目のときはまだ幼かったので、不思議そうな目で眺めていただけだったが、二回目のときは怪訝な表情をわずかに出していた。成長に伴って男女のの機微を感じ取れるようになったからです。

つまりは、ネイソンの成長に合わせて人生を追体験できる構造になっているのです。しかも、6歳からネイソンの人生を見てきため、彼の人格形成の過程も手に取るようにわかる。観客は非常に感情移入しやすくなっています。

では、なぜネイソンの成長にこれだけのリアリティがあるかというと、12年間の撮影の間に、主演のメラー・コルトレーン自身が成長してきたからに他なりません。

こここそが本作の骨子だと言えます。撮影手法を最大限生かし、映画の中に還元させる手腕は非常に革新的です。そして、この斬新なアイディアを成立させたのは、12年間撮影を続けてきた制作陣の根気とメラー・コルトレーンローレライ・リンクレーター両子役の役者としての成長があってこそです。

 

〈時間切り替えのポイント〉

12年間の追体験と言っても、当然そのすべてを描いているわけではなく、ネイソンの人生で重要なセクションが描かれています。引っ越し、母親の再婚と離婚、家庭内暴力、自分の夢、恋など人生のターニングポイントをうまく切り取っているのですが、面白いのは時間が切り替わる際のなめらかさです。編集で場面が切り替わった次の瞬間、突然ネイソンが数年分成長して様変わりしています。この唐突な編集があることで、いつネルソンが成長してしまうのかという緊張感を保ち、観客を飽きさせないようにしています。ただし、全く法則性がなく時間が飛んでいるわけではありません。

ポイントは、時間が飛ぶ直前に、次のセクションで起こる出来事を予期させる描写を入れていることです。

例えば、ネイソンが一回目の再婚相手メルブロックとゴルフをしているシーン。パターがうまく決まらなかったメルブロックは、軽く芝を蹴飛ばし、お酒を買いにいきます。ここでメルブロックの暴力性を予期させているのです。すると瞬間、次のセクションへ時間が飛びます。このセクションではメルブロックが徐々に強権的になる様子が描かれ、ネイソン

も少し暗い印象になっていきます。

別の例を挙げれば、ネイソンが山中でカメラを取っていたシーンの直後に時間が飛び、高校でプロのカメラを目指すセクションに移ります。

この編集のを入れることで、唐突な切り替えでも物語の連続性を維持できます。ひいては、人生とはどこまでも過去と地続きであるというメッセージなのかもしれません。

 

〈ネイソンの髪について〉

劇中ネルソンの髪が長くなったり短くなったりと変化します。この点に関しては主に二つの意味が込められていると考えます。

一つ目の意味は、上記の時間の切り替えの役割です。ネルソンが成長するは外見で良くわかるのですが、最もわかりやすい外見は髪だというわけです。つまり、ネルソンの髪が変わったことでセクションが変わったことを伝えることができます。

ちなみに、髪の変化で時系列を表すという手法は恋愛映画の傑作『エターナル・サンシャイン』で活用されていました。

二つ目の意味は、親の支配の指標です。

ネルソンがメルブリックに無理やり坊主にされるシーンがあります。ここからわかるように、どうしても子供の頃は髪を切る切らないは、親の影響が出てきます。親からの干渉が強いときは短く、干渉が弱いときは長くなっています。

 

〈周囲の人生〉

人生の追体験が描かれているのは、主役のネルソンだけではありません。

サマンサも子供時代から大学生になるまでの過程を書いており、幼少期は騒がしいお転婆な女の子だったのが、自我の確立で徐々に一人の女性として成長します。

オリヴィアは当初生活に追われて自信のない様子でした。しかし、大学を出て教師になったこと、二度の再婚をことなどを経て確実に変化しています。一度目の再婚相手に暴力を振るわれたときはされるがままだったのが、二度目の再婚相手が暴力の影をちらつかせていた時は同等以上の立場で対抗できるようになっています。オリヴィアの口調が少しずつ強くなっていくのもよくわかります。

実の父は、当初職を転々としながらミュージシャンになることを夢見ていました。そこから生活の安定と反比例させて音楽を趣味にとどめていくことで、現実に向き合っていたのでしょう。

他にも父の友人のジニーがミュージシャンになっていたり、オリヴィアの家に来た配管工事の青年が大学を卒業していたりなどがあります。

メイソンだけではなく様々な他の人生も提示することで、感情移入する間口を広くしています。

 

〈ラストシーン〉

最後のセクションでネルソンが大学に入り、同級生とハイキングに行く場面。ニコールという同級生が、6歳~8歳の子供にダンスを教えていることを話すと、ネイソンは「思春期にはなってないもんな」と返します。ネルソンが子供の頃を大人になった視点から評価することで、彼の少年期(BOYHOOD)が終わったという感慨が生まれるのです。

また劇中の幕切れが少し尻切れトンボのような印象になっているのですが、そこにも意味があると考えられます。彼の人生はまだ途中だからです。タイトルにあるように、あくまでも少年期が終わっただけであり、ここから長い人生が続いていくんだというとを示唆しています。

 

よく映画というのは、誰かの経験を共有できるものだと言われます。そういった意味では、この作品は究極の「経験」を作り上げているといえるでしょう。彼らの物語が普遍的だからこそ、観客は作品世界にのめり込んでいくのです。

この素晴らしい「人生」を作り上げてた制作陣のたぐいまれなる努力と才能に敬意を表します。

 

◆私的な話

このような調子で気ままにレビューを公開していきます。

ご意見ご感想をお待ちしております。

 

映画レビューブログです。

この度映画レビューを始めたした。
中学時代から映画にハマり、結構な数の作品を観てきました。そこで鑑賞しての感想や批評を誰かに発信したいと思い、本ブログを始めました。
比較的新しい作品を中心に記事を書きたいと思っています。また、なるべく分析的に作品を観ていき、独自の視点で解説をできたらと思います。
好きなジャンルはドラマ、SF、ミステリーなどです。
映画好きな人たちとの交流もしたいので、コメントも遠慮なくお願いします。