『キングアーサー』レビュー ~作品の歪な面白さと興行成績、二つを天秤にかける~

◆基本情報                         

・原題『King Arthur:Legend of Sword』

・2017年6月 日本公開

・監督 ガイ・リッチー 脚本 ジョビー・ハロルド、 ガイ・リッチー、 ライオネル・ウィグラム

・出演 チャーリー・ハナム、 ジュード・ロウ、 ジャイモン・フンスー、 アストリッド・ベルジュ=フリス

 

◆あらすじ

ヴォ―ティンガ(ジュード・ロー)の策略により、父を殺され、王家より追い出されたアーサー(チャーリー・ハナム)は、スラム街で貧困と暴力の中を生き抜いていた。そんな折、聖剣エクスカリバーにまつわる運命が、アーサーを王位をめぐる争いへと誘うことになる。

 

◆レビュー

人間には適材適所がある。学校では人をまとめ上げる能力に長けた人間が生徒会長をしたり、社会では探求心の強い人間が研究職に就くことなどが良い例でしょう。

人間は自分の持つ能力を最大限発揮し、役立てたいと心のどこかで願っています。そのほうが本人だけではなく、周囲の人間にとってもプラスに作用することは明白です。

ではもし、自身の適正から少しズレた領域の仕事を任された時、どういった結果がもたらされるのか?今回レビューする『キングアーサー』は、才能と環境という視点で観てみると、非常に興味深い作品だと言えます。

 

〈監督の過去作を振り返って〉

ガイ・リッチー監督の特色と言えば、独特な演出とスピーディな展開。具体的には、時系列を前後させることで作品に外連味と緊張感を保ち続ける手法です。この演出を入れることで、現代的なスタイリッシュさが全面に押し出されます。

この特徴は、監督の過去作にほぼもれなく反映されています。

寄木細工のような巧妙な脚本のクライム映画『スナッチ(2000)』。世界で最も有名な探偵を、アクションのフィールドで活躍させた『シャーロック・ホームズ(2009)』『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム(2011)』。スパイ映画の切れ味を極限まで高めた痛快作『コードネームU.N.C.L.E(2015)』など。

ガイ・リッチー監督の才能は、特アクション映画と互換性が強いと言えます。時系列を入れ替える編集を入れることで、現代映画の潮流、スピード感重視の傾向の最先端を行っています。その意味で直近の『シャーロック・ホームズ』『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』『コードネームU.N.C.L.E』は、ガイリッチー節が如何なく発揮された好例と言えるでしょう。

 

ガイ・リッチー×ファンタジー〉

本作の原作は言わずと知れたアーサー王伝説で、数々の映画、小説、漫画作品のモチーフとなっています。この原作をオーソドックスに映画化するのであれば、莫大な予算と時間がかけることは必要不可欠。事実『キングアーサー』は全6部作の制作予定になっていました。

ファンタジー映画の骨子は、いかにして世界観を構築できるかにかかっており、時代考証、衣装、幻想的ムード、それらが組みあがって見応えのある重厚な作品になります。

先行作品を挙げれば『ロード・オブ・ザ・リング』(3部作)『ナルニア国物語』(3部作)『ハリーポッター』(7部作)などです。

しかし、ファンタジーが本来持っているはずの重厚さと、ガイリッチー監督の持ち味である現代的で軽妙な演出は、本来相容れない水と油の関係です。監督と題材の互換性の低さこそが、本作の最大のポイントだと断定します。

例えば、アーサーが剣を操るためにダークランドへと旅に出る修行シーン。驚くべきことにこのセクション丸々、文字通り早送りで編集されているのです。従来のファンタジー映画ではその修行シーンに時間をかけており、定石に照らし合わせればあり得ない選択と言えます。しかし同時に、この無駄を省いた物語展開は、いかにもガイリッチー監督らしい持ち味でもあります。

同じく早送り編集で言えば、アーサーが幼少期から大人に育つまでの過程も省略されています。子供の頃のエピソードは退屈になるため、必要ないと判断したのでしょう。

他にも、イングランドを代表する12人の領主との対談しにいくシーン。次の展開を洒脱な会話を織り交ぜながら予想していくあたりに、ガイリッチー節がさく裂しています。

アクションシーンについても、歴史ものにある剣劇の系譜からは外れています。エクスカリバーで大人数をなぎ倒したり、ヴォーティガンとの決闘においても現代的なスピード感のあるものに仕上がっています。

このように、ファンタジー映画の本流からはかけ離れた、色物であることは間違いないでしょう。この手の映画のファンからすれば、物足りないどころか、怒りすら買いかねないのも事実です。

しかし、何か新しいものを創る時には、常にリスクがつきまとうもの。無難に今まで通りのファンタジー映画を作りたければ、そもそもガイリッチー監督にオファーすること自体が間違いで、彼が起用された時点で、ある程度は結果が見えています。そこには、従来のファンタジー映画の常識を覆してやろうという意気込みが隠れているのだと思いました。

本来交わるはずのない要素が結合し、歪であるがゆえに今まで味わったことのない映像体験ができます。

 

〈記憶の回想〉

ガイリッチー監督の特性が純粋にプラスに働いている部分も確実にあります。

アーサーは幼少期の記憶が曖昧で、父の黒い魔物の正体、母の死がはっきりとは描写されないようになっています。そこから、エクスカリバーに触ることで徐々に過去の悪夢を思い出すようになります。 

一連の構成は、アーサーがトラウマを乗り越え、自身の運命と対峙するまでの心理をとても効果的に演出することに成功しています

フラッシュバックを多用する方法は、前述したスピード感を出しエンタメ要素を強化する演出とはベクトルが違い、人物の内面を掘り下げる意図をもって組み込まれています。その意図と作品に厚みを持たせる必要性が、正常に手を結んだ結果だと思います。

 

〈王の器とは〉

原作が有名な古典のため、話の骨格を取り出してみると教訓的な内容が読み取れます。これは、王の器にまつわる物語です。

アーサーは娼館で育てられ、暴力と貧困にさらされた劣悪な環境の中にいました。逆境の中から自身を鍛え上げ、知恵を使ってのし上がっていく、魅力的な人物像が見て取れます。そのため仲間からは慕われて支持されています。だからこそ、自分の為に国民が立ち上がり暴動を起こした際に、見捨てることができなかった。

対して、ヴォ―ティンガは計略を巡らして、自身の兄にあたる、アーサーの父を殺害し、メイジの契約の為に妻と娘を犠牲にする残忍で狡猾な人物です。

両者を比較したとき、どちらが人を統治し、従える人物として優れているかは推して知るべし。最終場面、アーサーは因縁のあるバイキングも王として受け入れ従えました。清濁のみ込む王としての器の大きさを表した描写です。

 

〈興行成績〉

どう考えても万人受けするタイプではない本作、案の定と言うべきか、興行的には大惨事になりました。衣装や撮影、有名俳優へのギャラ、プロモーションなどに大金をかけたようですが、興収で全く回収できず大赤字。制作陣も頭を抱えていることと存じます。

映画関係者のインタビューでは、近年のガイリッチー監督作品の中で、最大の失敗作とも言われています。元々全6部作にするはずだった計画も頓挫して、続編の制作は絶望的です。

また、批評面でも厳しい状況で、レビューサイトを覗いてみるとなかなか手厳しい意見が散見されました。

世間的には、上記のような反応は当然だとは思いますが、それでも私はこの作品を批判したいとは思いません。『キングアーサー』は、邪道ながらも挑戦心に溢れた作品。何かを変えようとした結果の、大いなる失敗だと思います。これからも“コケる”ことを恐れない前傾姿勢を忘れないでほしい。その先にしか作家的な発展は見込まれないと思うからです。


◆余談 

監督と作品のジャンルって繊細な関係だと思います。特に映画は企画から実際の撮影までチームで進めていく性質上、監督個人の意見だけが通るものではありません。自分のやりたいようにやれない部分も多々あるだろうに、その辺の気苦労も含めて監督業の一環でしょうね。

ガイリッチー監督の今後のキャリアがどうなるのか、色んな意味で楽しみです。アクション路線で安全に進んでも構いませんが、振り切って全く適正のないジャンルにも挑戦してもらいたい。恋愛映画、ヒューマン映画をガイリッチーが作ったらどうなるのか?恋愛映画で、男女の距離が縮んでいく過程がよくありますが、あそこに早送り演出を適用したら凄いことになると思います。半分興味本位ですが、そんな作品も観てみたい。恐らく企画段階で没になるでしょうが。

『夜明告げるルーのうた』レビュー ~和解の瞬間に訪れる感涙 アニメーションだからできたこと~

◆基本情報                         

・2017年5月 公開

・監督 湯浅政明  脚本 湯浅政明、 吉田玲子

・出演(声優) 谷花音、 下田翔太、 寿美菜子、 斉藤壮馬

 

◆あらすじ

東京から港町の日無町に移り住んできた足元カイ(下田翔太)は、内向的な性格から生活に馴染めないでいた。唯一の趣味は音楽の打ち込みで、その動画を投稿し公開することだった。偶然クラスメートの海老名遊歩(寿美菜子)と国夫(斉藤壮馬)に動画を発見され、腕前を見込まれたカイは、二人から「セイレーン」というバンドを一緒にやらないかと誘われる。渋々バンドに参加したカイだったが、練習場所である人魚島で女の子の不思議な声を聞く。

 

◆レビュー

アニメーションという媒体を介することで最大限伝わることがあると思う。

今まで、このブログでは洋画ばかり扱っており、邦画のそれもアニメ作品をピックアップするのは初めてになります。ここ最近の私の課題はハリウッド映画偏重の見直しであり、その一歩として『夜明け告げるルーのうた』は最適かと思います。というのも、本作は実写映画にはない愉しみに溢れた快作だと感じたからです。

基本的な作品解釈のスタンスは変わらないのですが、アニメーションの世界観が作品をいかに昇華させるのかの見解の提示を試みます。

本作の監督である湯浅政明氏の作品は『夜は短し歩けよ乙女』のみ鑑賞済み。こちらは一応楽しめたのですが、個人的にはそこまでツボに嵌らなかったのが正直な感想です。作画の出来による差と言うよりも、メッセージ的な意味合いで私の趣好が影響した結果です。それだけ『夜明け告げるルーのうた』から投げかけられた感動に、心揺さぶられたのだともいえます。

 

〈世界観 都会性と田舎の共存〉

今回の主題とは少し脱線しますが、作品を包み込む世界観もまた、現代性を反映させた問題提起として秀逸かと思います。

舞台となる日無町は人魚の伝説生きつく港町で、廃れゆく地方都市のステレオタイプとして描かれます。町を支えるのは漁業と傘の二本柱ですが、産業の先行きは芳しくありません。その斜陽を迎えた様子は、日無町という名称にも象徴されています。

行き詰った町の現状を打開するべく、人魚を利用したPRをして町の活性化を狙うのは、この手の映画でままよくある展開。ここで描かれるのは、人間のエゴが伝統や環境を侵食していく様です。人魚ランドなるアミューズメント施設は最たる例で、誤った共存の姿として、忌むべき場所として描かれます。

上記の例と対となるのは、物語の終盤にある人魚と人間が協力して災害を乗り越えるシーンです。人魚は人間を救い、人間は日傘で人魚を守る姿は正しい共存の模範解答なのだと言えます。

正しい共存といえば、ミサキ先輩が果たす役割も見逃せないところ。序盤で一度東京に行って、出戻りで落ちぶれたように言われていますが、本当は日無町でカフェと観光業を両立させていこうと計画しています。カフェにある都会的な雰囲気は、東京で過ごしたから獲得できたもの。そして、観光業は地方に根差しているからこそ成り立つものです。この二つを引き合わせる発想は「都会性を正しく取り入れることで田舎の発展に繋がるのではないか」という、本作スタンスを明瞭に表しています。

地方の過疎化が深刻化している昨今、こういったテーマを盛り込んだ作品は数知れずあるでしょう。その中でも本作が示した共存の有り様は、押しつけがましくないものです。気負いのないメッセージだからこそ、観た人の胸に自然と染み入る浸透力があるのだと思います。

 

〈アニメーションの躍動感〉

アニメーション独自の魅力は、実写では表現しえない“動”的な要素にあると考えます。その意味において、湯浅政明監督の作り上げた世界は飛びぬけてアニメ的と言えます。

その楽しみに溢れた魅力は枚挙にいとまがありません。

初めに触れておくべきは、ルーというキャラクターです。ルーが縦横無尽に踊り、感情豊かにリアクションを取る所作すべてが、アニメの喜びに満ち満ちています。人魚の子供だからこそ、人間世界で目にする出来事に素直に反応し、歓喜・感動・驚愕・落胆・悲嘆のすべてをダイレクトに動きで表しているのです。ルーを演じた子役の谷花音の演技も申し分なかった。

声優陣の好演も見どころの一つで、主人公カイ役の下田翔太は、思春期ならではの繊細な少年を演じきっていましたし、遊歩役の寿美菜子は、若者らしさと方言が入り交じった喋りが絶品でした。

劇中、ルーが海水を自在に操るところも、エネルギッシュな妙味が抜群に効いています。ダイナミズムある海水の動きは、アニメだからこそ実現できたものです。

他にもアニメ的なデフォルトが効いた場面として、お蔭岩と人魚伝説の説明をする際にロールプレイング形式にしていること、カイの祖父の昔話になると水彩画調の画風を取り入れていることなどが挙げられ、随所に工夫が凝らされています。

ところどころ遊び心のある演出を積極的に取り入れていますが、背景にある日無町の自然豊かな色彩は、しっかりと地に足のついたリアルな画造りが徹底されていて、世界観の構築にも抜かりありません。

ギャグシーンも面白く、椅子レースのシーンや「生き〆ですから」の件は手放しで笑いました。

このように、本作ではアニメーションの力強さは、観客を視覚的に楽しませる役割を充分に果たしています。しかしそれだけではなく、後述するメッセージ性を担保するためにも絶対に必要不可欠なものでもあるのです。

 

〈音楽を介して伝わること〉

音楽の魅力によって人の心を動かす。それを作中で実現するには、実際にかかるメロディー、楽曲自体に相応の求心力がなくては成立しません。

まずガツンとやられたのが、オープニングです。エコーがかかったような幻想的なルーの声に誘われ、始まる音楽の力で、グイグイと作品世界に引きずり込まれました。

そして何より、灯籠祭でセイレーンが演奏を初披露するシーンが最も音楽の魔力を体感するところだと断言します。カイやセイレーンのメンバーだけではなく、その場に集まった大勢の人間が、ルーの歌声に逆らえず踊り出す。文字通り、身体が勝手に動き出すわけですが、それは、劇中の登場人物だけに留まらず、映画を観ている我々観客にまで当て嵌ります。つまり、鑑賞者も灯籠祭の場にいるように感じ、音楽の魅力を追体験をすることができるのだと言えます。加えて、あのシーンはアニメ的なデフォルメが効いた表現も小気味よく、視覚的な面白さも兼ね備えています。まさに、アニメと音楽の融合が達成されている。

あの瞬間、あの場にいる誰もが同じ気持ちを共有している喜び。その瞬間的かつ奇跡的な喜びを実現できたのは、他でもなく音楽の存在があるからです。灯籠祭のシーン一点に、湯浅政明監督がやりたかったことが集約されています。

音楽について、劇中流れる斉藤和義の『歌うたいのバラッド』がメインソングとなっています。この曲が選ばれたのは、映画を通じて伝えたいメッセージ「歌を通じて気持ちを伝える」を体現しているからです。歌詞にあるように、ものすごくストレートに、気持ちを伝えることの大切さを説いた名曲となっています。

 

〈わだかまりが解ける瞬間〉

この作品の最大のテーマは「他者と私は分かり合えるのか?」です。とても普遍的な命題で、それゆえに答えが難しいはず。しかし、本作では非常に説得力をもった回答を提示しています。

人魚とは人間にとって、自分とは違う異質な存在で、つまりは他者そのものとして扱われます。理解できない相手だからこそ恐れ、偏見が生まれるのです。

人魚に噛まれると人魚になってしまう。町の中で噂が流れていく描写は、悪意がなく偏見が蔓延していく様を表しています。

カイの祖父が人魚を敵視していたのは子供の頃に、母親が人魚に噛まれて亡くなったと思っていたからです。しかし実際は、人魚が溺れているところを助けたことが真相でした。

タコ婆が人魚を憎み続けていたのは、恋人を人魚に殺されたと思い込んでいたからが、後に人魚となった恋人に再開できました。

誤解と偏見から相手と理解し合えないのはもどかしく、心苦しくもの。その誤解を解く方法は「ゆっくり、一言一言区切って」伝えることです。自分とは違う者と理解し合うための方法は、当たり前なのですが、自分の気持ちを伝えるほかないのだと訴えかけてきます。

分かり合えた瞬間の感涙を象徴しているのが、カイと父親との和解のシーン。思いの丈を正面から伝える時、背筋がゾクゾクするような感動を体験できました。

本作は、「あなたと私」の溝が埋まり、わだかまりが解ける瞬間の喜びを描いた作品。そして、この結論が甘っちょろくなく、説得力のあるメッセージになっているのは、アニメーションの世界だからに他なりません。ともすれば、綺麗ごとになりかねない回答も、アニメというフィルター通して現実の無常感を色抜きすることで、我々鑑賞者の胸に淀みなく届くのです。

 

◆余談

前回レビューした『おとなの事情』にて、人がうまく付き合っていくには、嘘が必要なのだと書き、ある意味で今回の『夜明け告げるルーのうた』の結論とは真逆の意見になりました。私はどちらの結論も間違っているわけではなく、両方正しいのだと思います。矛盾しているのではなく、そこにこそ、実写とアニメで伝えられるメッセージ性の違いが顕著に出てきます。

と、あらぬ誤解が生まれないように、一応フォローを入れて終わります。

『おとなの事情』レビュー ~虚構の中でしか生きられないおとなたち~

◆基本情報                         

・原題『PERFETTI SCONOSCIUTI』

・2017年3月 日本公開

・監督 パオロ・ジェノヴェーゼ  脚本 パオロ・ジェノヴェーゼ、 フィリッポ・ボローニャ、 パオロ・コステッラ、 パオラ・マンミーニ、 ローランド・ラヴェッロ

・出演 ジュゼッペ・バッティストン、 アンナ・フォリエッタ、 カシア・スムートニアック、 マルコ・ジャリーニ、 エドアルド・レオ、 ヴァレリオ・マスタンドレア、 アルバ・ロルヴァケル

 

◆あらすじ

昔からの付き合いで仲の良い7人(3組の夫婦と独身男性)が、食事会を開き親睦を深めていた。冗談の延長で、自分たちの携帯を机に置き、着信があったらスピーカーにしてみんなに公開するというゲームを始める。次第にそれぞれの抱える嘘が露見し、事態は思わぬ方向へと転がりだすこととなる。

 

◆レビュー

ダヴィッド・ディ・ドナッテロ賞をご存じだろうか?少なくとも私は全く知らなかった。

このいかにも舌を噛みそうな名のこの映画賞は、イタリアのアカデミー賞とも言われています。この賞を取った本作はイタリア本国では大ヒットを飛ばしているらしいです。

日本国内では、アメリカのアカデミー賞に関するニュースは一般に普及しており、今年のアカデミー賞候補である、キャスリン・ビグロー監督の社会派作品『デトロイト』なんかが良い例です。今朝方ニュース番組を観ていると、ビグロー監督のインタビューを交えた宣伝が流れていたのが印象に残っています。

ところが、イタリア映画となると敬遠するのが日本人の悪しき先入観なのか、話題にならないのが実情です。かく言う私も、イタリア映画をあまり鑑賞しておらず、省みなければと思いました。その考えに至れたのも、今回レビューする『おとなの事情』の完成度の高さ故であり、この作品に出会えたことに感謝しなければいけません。

なお、このブログでイタリア映画を扱うのは二回目で、以前『鑑定士と顔のない依頼人』をレビューしました。

 

movielocallove.hatenablog.com

こちらも見応えある作品なので、良ければ鑑賞してみてください。

 

〈群像会話劇としての到達点〉

物語前半で魅せられる軽妙洒脱な会話劇が見所の一つ。

この作品で繰り広げられるコメディは、所謂“わかりやすい笑い”と一線を画しており、“ユーモア”という形容が何よりも当てはまる、斜に構えた笑いに仕上がっています。言い換えれば、変化球としての笑い、シニカルで物事を達観した捉え方が伺えます。

例を挙げるなら、恋の定義についての議論。恋をしているかどうかは、どうやって見極めればよいのか?という命題に対して、

「一日30分話すなら恋に落ちてる」「一日60分なら?」「それは恋の病ね」「0分なら結婚だ」

という皮肉交じり会話がリズミカルに連なります。

他にも、男と女の差異をパソコンに例えたところも旨いものだと感心しました。

「男はWindows。安いけどウィルスに弱くて、平行作業ができない」「女はMac。頭が良くてエレガント。金がかかる割に互換性が低い」

ワンシュチュエーションで、気心の知れた仲間同士から生み出されるやり取りの数々は、可笑しみの隣に人間真理を突く鋭さを備えています。この鋭さこそ、後半におけるシリアスな展開への予兆とも取れます。

脚本に名を連ねるのは、ざっと調べただけでも8人以上です。これだけの小粋なアイデアは、何人もの映画のプロが意見を持ち合ったからこそ成立したのだと思います。同時に、集団として足並みを揃えて一つにまとめ上げる労力もまた、並大抵ではなかっただろうと想像します。

 

〈伏線、展開の巧みさ〉

伏線を張り巡らせ、緻密に設計されているのも本作を傑作足らしめている要因です。寸分の隙がなく、96分の上映時間一杯を使ってとてつもない情報量が収まっています。しかも、作品を窮屈にさせず、エンタメ性も確保したうえで成立させており驚嘆すらします。

エヴァロッコの子供の問題。カルロッタとレレの姑問題、パンツの一件、事故の話題。ビアンカとコジモのワインに関しての会話。それぞれが追々の展開に無駄なく生きてきます。これらの伏線は前述した軽妙な会話の中に無理なく組み込まれており、話題が滔々と移り変わるその展開力は見事の一言。とりわけ感心したのが、ぺッぺとレレのスマホ交換のアイデアです。この件で、こんなにも話を広げるとは、初見時は予想できませんでした。

また触れておきたいのは、二段落ちの構成力です。中盤でそれぞれの夫婦の抱える問題に一回目の着地を見せ、観客を一安心させてます。この「ちょっと良い話」で終わってしまったら、その辺の凡百な作品に成り下がっていたことでしょうが、そこからもう一波乱起こすひねりの効いた脚本が素晴らしい。そして明かされる二回目の落ちこそ、作品のテーマである虚構の中で生きる大人の姿を映しています。

本作は複雑な構成の上に成り立っており、後になって、前半の登場人物の発言一つ一つの真意を知ることとなります。その意味で二回目、三回目に観ると、「あの時、あの人はこういう心情だったのか」と本当の意味で感情移入できて味わい深く感じます。

何回も鑑賞できるタイプの作品という意味でも、“おとな”な出来だと言えます。

強いて苦言を呈するならば、音楽の使い方について。真相が明かされる度に同じBGMが流れて単調だったかなとは思います

 

〈嘘をつくことの意義〉

全ての嘘が明かされた後の醜い本音の罵り合いは、目を覆いたくなるほどの惨状で、前半の取り繕っていた頃のコメディの裏面と言えます。ここから浮かび上がるテーマは、大人同士が共に生きていく為の嘘の必然性なのだと断定します。

人間は相手に妥協し、嘘をつかなければ生きていけない生き物です。本音を語り、その度に折衝していたら、友人とも夫婦とも関係を続けることができなくなってしまう。彼らの嘘は必要に迫られた、切実な理由か発したものです。

これらのテーマを見事に表しているのがラストで、映画史に残る名シーンといえます。全てのトラブル終わりみんなが外に出ると、今までの出来事すべてがなかったかの様に元の関係に戻ります。ここの切り替えの早さこそ、本作の最重要ポイント。

初めからみんなわかっていたのでしょう。自分も相手も、誰しもが嘘を抱え、その虚構の中でしか生きていけないことを。相手の嘘を見逃すということは、自分の嘘を見逃してほしいという要求とイコールです。その打算と駆け引きによって平穏が保たれるなら、虚構の世界でも構わないじゃないか、とのメッセージが読み取れます。

最後に、本作のひねりの効いた脚本に習って、もう少し穿った解釈をしてみようと思います。

劇中のシリアルキラーの例えにあるように、人は無駄とわかっていても誰かに本当の事をわかって欲しいもので、そのために臨んで馬鹿げたゲームに参加することもあります。本作の構成上、二段目の卑劣な嘘が強烈で忘れられがちですが、一段目の優しい嘘もまた劇中で確実に存在しています。また、エヴァロッコの娘ソフィアの問題に関して、本音を語り合った末に、本当に理解し合えた様子も描かれています。

これらから垣間見える嘘の善良さを、決して否定しきっていない点を踏まえた上で物語を見直すと、本作の捉え方が僅かばかりでも変わるのかもしれません。

 

◆余談

本作と比較する作品があるとすれば、2012年のロマン・ポランスキー監督作『おとなのけんか』です。群像会話劇のスタイルや、テーマも含めて似通ったところがあります。邦題も上記の作品に寄せてつけられていて、意識したことは容易にわかります。

なお、本作のタイトルの英訳が『PERFECT STRENGERS』で、2007年公開のハル・ベリー主演作にほぼ同名のものが存在しますが無関係です。こちらは見所がないわけではないのですが、個人的におすすめしません。共通項を見つけるならば、保身から嘘をつく人間の愚かさといったところぐらい。

 

私は映画を観る際に、先入観を持たないように心掛けており、本来なら食わず嫌いなんて以ての外です。そこで、これからはイタリア映画への挑戦も課題にしようと思います。手始めに、ダヴィッド・ディ・ドナッテロ賞の他作品を鑑賞してみます。

というか、イタリア映画に限らずですけどね。邦画も含め、もっと他国の作品に手を伸ばしていこうと思います。

『スウィート17モンスター』レビュー ~“痛さ”の先にある自立の物語~

 ◆基本情報                         

・原題『THE EDGE OF SEVENTEEN

・2017年4月 日本公開

・監督 ケリー・フレモン・クレイグ 脚本 ケリー・フレモン・クレイグ

・出演 ヘンリー・スタインフェルド、 ヘンリー・ルー・リチャードソン、 ブレイク・ジェナー、 キーラ・セジウィック、 ヘイゼン・セット―

 

◆あらすじ

17歳のネイディーン(ヘンリー・スタインフェルド)は、幼い頃から出来の良い兄ダリアン(ブレイク・ジェナー)と比べられ、その劣等感から、エキセントリックな行動をとるようになる。そんな彼女にとって、唯一の友達であるクリスタ(ヘンリー・ルー・リチャードソン)と一緒に過ごすことが救いだった。しかし、兄のダリアンと親友のクリスタが付き合うようになり、ネイディーンの居場所は本格的になくなってしまう。

 

◆レビュー

思春期の揺れ動く精神状態からくる苦い思い出は、誰しも思い当たる節があるはず。今になって思い出せば赤面したくなる出来事でも、当時にすれば真剣に問題と向き合っているが故の空回りだったりします。

今回レビューする『スウィート17モンスター』はそんな普遍的なテーマを、コメディーの枠組みにしっかり捉え、その先にある成長の眩さを誠実に描いています。

監督、脚本を務めたケリー・フレモン・クレイグは、今回が初監督とのこと。そんなキャリアの浅さなど感じさせないほど、自然な話運び、演出を披露していました。

または、そのフレッシュな感性が本作のテーマと結びいた結果、このような良作が生まれたのかもしれません。

 

〈ネイディーンの“痛い”キャラクター〉

主役のネイディーンを演じたヘンリー・スタインフェルドの強烈な存在感がなければ、この作品の成功は難しかったと思います。彼女の愛らしくも下品で苛立たしい所作の数々や、情緒が抑えきないばかりに変化し続ける豊かな表情は、どこか癖になるものがあります。

教師のブルーナー(ウディ・ハレルソン)の昼休憩を邪魔する無意味おしゃべり。母のオフィスで、繰り返しホッチキスで書類を止めまくる手遊びなど。彼女の幼稚な言動は尽きることなく続き、コメディーにおいて強烈な役割を果たしています。

彼女が薬を飲んで人の関心を引きたがるあたり、少し病んでいるように見えますが、これは年頃の少女特有のものでしょう。

ネイディーンの子供っぽい性質をうまく表しているのが、極彩色なファッションです。

劇中にたびたび出てくる、青を基調に白と黄のラインがはっているジャケットはその代名詞です。原色の服ばかり出てくるもので、ファッションに敏感な人は、その点に注意を払うだけでも飽きないこと請け合いです。

色と言えば、何度か登場するジェラートフローズンヨーグルトは、アメリカのティーンエイジャーが好みそうな毒々しい、いかにもな食べ物でした。服と同じく彼女の幼さの象徴としてのアイテムです。

 

〈兄妹の微妙な関係性〉

ネイディーンの幼稚性の根源は、兄との関係にあります。

幼い頃から、できる兄と比べられることで、彼女の自己評価が低くくなり、その結果、承認欲求に飢えたモンスターになってしまいました。兄ダリアンの「自分大好き人間」というキャラクターは、圧倒的自信に因るもの。ネイディーンの劣等感は、兄の強すぎる明かりの影と言えます。

危険なバランス感覚で保たれている兄妹の天秤が、友情と恋を巡って、傾き崩れてしまうのは当たり前のこと。

ネイディーンを唯一認めてくれる存在がクリスタです。親友の存在がネイディーンの不安定な心を辛うじて支えていたのに、それを唯一絶対の比較対象たるダリアンに奪われる屈辱は、想像に難くありません。

また、ネイディーン自身の恋愛対象も、兄の影響を多分に受けているのが面白い。

当初、彼女が熱を上げていたのはビジュアルが優れたニックです。つまり、わかりやすく他者から認められる性質のある、人気者の記号としての人物です。ネイディーンが求めている恋人像は、己の自信のなさを補強してくれる要素が求められます。ダリアンとの対抗意識から、自分の価値を引き上げなければ、という心理が働くためです。

オタクっぽいアーウィンを歯牙にもかけなかったのは、上記の心理の逆作用と言えます。

この兄妹に関わる問題提起は終盤に置かれる展開、ネイディーンが何を乗り越えるのかの回答に綺麗に着地しているあたり、端正な作りの作品だと感じました。

 

〈父性を求める姿〉

本作は、兄妹を巡る物語だけに留まらず、父性が根深く絡む側面も有しています。

序盤にあるネイディーンの幼少期では、彼女と母の喧嘩を見事に仲裁する父の姿が描かれます。ここから、この家庭では、父が精神的な支柱であったことが分かります。

時が流れ、現在ではその支柱を失い、家族のバランスと関係が確実に変化しています。

母のモナが恋人の歯科医に裏切られたシーン、あんなに仲違いをしていた母と娘が慰め合い、睦まじい姿をみせます。失った“父性”という名の空白を、手を取り合って補う姿なのだと感じました。

兄のダリアンは自信に満ち溢れ、父性の代打に成り得るように見えますが、まだ若く、その域まで達していません。母から頼られながらも、それに応えきれない様子も描かれます。

本作で父性を代表するのが、文字通り、教え導く職業である教師のブルーナーです。

何かにつけてネイディーンが彼を頼り、愚痴をこぼすのは、自分のわがままを受け止めてくれる器を見出したからです。諭したりいなしたりと、余裕をもって彼女の突飛な言動を処理する様は、まさしく父親の風格を漂わせています。

終盤でブルーナーが、ネイディーンを家に帰るよう突き放すシーンがあります。父性に依存してきた彼女の自立の一歩目を促しているかのようでした。

 

〈乗り越えた先の自立〉

ネイディーンが乗り越えるべき相手は、当然、張り合い続けていた兄ダリアンです。

乗り越えるとは相手を打ちのめすことではなく、互いの存在を認め合い、丁度良い距離を保つことを指します。最期に兄妹で抱き合う場面はその象徴です。

ダリアンとクリスタの交際を受け入れたこと、容姿ではなくアート的な魅力のあるアーウィンに恋をしたことから、彼女がこだわってきた兄への劣等感が消えたことが見て取れます。

ネイディーンの情緒不安定な行動は、父性への執着を捨て、兄との適切な関係を築くことで取り払われました。ラストショットで彼女の見せた朗らかな表情が、それを物語っています。

 

この作品は、ど派手な色使いの見た目からティーン向けお気楽映画かと思われるかもしれませんが、油断して鑑賞していると、その堅実な造りに不意打ちを食らわされます。

一人の少女が、成長して大人の道を歩み出すその姿は、一見の価値ありです。是非DVDなぞで手に取ってみてください。

 

◆余談

本作では、ファッションが劇中で重要な役割を担うのですが、私個人はその方面に疎い。

わかる人なら服のブランドやデザインから、映画を読み解き、記事の一本を書くことが出来るのでしょう。以前『シングストリート』のレビューを書いた際に、映画レビューするにあたり、音楽の扱いに困っていると書きました。今回も同様のケースと言えます。

多分これらに限らずですけど、一つの分野に特化した知識をもった人が書く記事って一味違います。

なにか他に趣味でもあれば、もっと多角的な視点でレビューできるのにと考えていますが、何分、映画観て、本読んで、寝て、仕事してたらあっという間に日が過ぎてしまします。

別の楽しみは、人生に余裕ができてからにとって置きます。

自分の話をしようと思う。また、ブログのタイトルについて。

 

自分の事を語るのが苦手だ。気恥ずかしいのと、人に自慢できるような人間じゃないという自覚があるからです。

まずは、自分がこのブログを始めた理由に遡る。

いろんな映画を観るうちに、膨れ上がる想いがありました。「こんな解釈もできるんじゃないか」「こんな意味が込められているのではないか」と、作品に対して思考を巡らせることが何より面白かった。そして、ただ観ているだけでは、どうしても飽き足らなくなってしまったのです。映画に関する意見を誰かと共有したかった。誰かと繋がっていたい思いと、少しの自己顕示欲があったのは否定しません。多分、この手のブログを始める理由としては月並みなものなのでしょう。

しかし、実際にブログをやってみると、当初の考え以上の収穫がありました。それは、自分の思いを文字にし表出することの意義を実感できたことに尽きます。

何かを表現するって純粋に楽しい。文章を書くって本当に素晴らしい。なんの不純物もなく、感じる瞬間が確かにありました。

もっと書きたい。もっとうまく書きたい。多分これだけで自分の人生がずっと意味のあるものになったのだと思います。

とにかく、私にとってこのブログが人生の清涼剤として作用しているのですが、しかし、本ブログを続けていくにあたり、なにか足りないものがあると常々感じていました。気が付いたのが、なんだか味気ないなということです。

他の方のブログを拝見すると、みんな自分の話を盛り込むのが本当にうまいんです。

私が読者になっているブログは、概ね映画や文学のレビューが中心のものばかり。書いている記事のコンセプトは自分と同じはずなのに、私の無味乾燥なレビューとは大違いでした。随所にその人の人となりが垣間見えて、興味深かった。

考えてみたら、自分がレビューを書く際に、とにかく客観的視点を入れようと意識していたんですよね。結果的に自分個人の色が見えないものとなってしまいました。だから、私がどういった人間なのか少しだけ伝えたほうが良いと思い、今回の記事に至りました。

 

独り暮らしの男で、26歳。現在契約社員として働いており、別の仕事を求職中。仕事する中で、なにが自分に向いているのか、頭を悩ませています。映画に関わる仕事につけたら良いとか理想論もあります。

大学時代は文学部で、その際学んだ文学評論のメゾットが、現在の映画のレビューの基礎にもなっています。卒業してからもよく本を読んでいます。

好きな小説家は、松本清張太宰治、奥田英郎など。

好きな映画は、いくつかあり、フランク・ダラボンの『マジェスティック』『50回目のファーストキス』ピクサーの『ウォーリー』などなど。他にも好きな作品はいっぱいあるのですが、オールタイムベスト10の紹介はまた追々にします。

 

次に、自分の性格ですが、何というかあまり器用な部類じゃないと自認しています。融通が利かないのが本来の性分で、その分損をすることが多々ありました。振り返って、もっと器用に生きれれば、どんなに楽だったのかと後悔する反面、生まれ持った性格が嫌いにもなりきれないのも事実です。

26年間生きて、この性格は世の中を生きていく上でむしろ弊害なのではと気がつきました。だから、何かに妥協したり、部分的にあきらめたりすることも必要だと最近になり実感し、自分を変えようと意識しています。すると案外事態がうまく運ぶ事が多くなりました。多分それは悪いことなどではなく、この歳になって少しだけ大人になるということを理解できたのかもしれません。

現実においては自分の持つ理想通りにはいきませんが、このブログについては、話は別かなと思います。自分の好きなことを徹底的に追求し、心の赴くままに書きたいものを、書いていきたいと思います。

このブログのタイトル『愚直な奴の一点突破』は、私の厄介な性格も、見方を変えれば武器になるという考えが原点です。現実では実現不可能なものを、文章を通じて体現できたらなという思いも込められています。

 

これから先も、自分のペースではありますが、このブログを続けていきますので、何卒よろしくお願いします。

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』レビュー ~なぜ、この町が舞台に選ばれたのか~

 ◆基本情報

・原題『MANCHESTER BY THE SEA』

・2017年5月 日本公開 

・監督 ケネス・ロナーガン  脚本 ケネス・ロナーガン

・出演 ケイシー・アフレック、 ルーカス・ヘッジズ、 ミッシェル・ウィリアムズ、 カイル・チャンドラー

 

◆あらすじ

ボストンで便利屋として働いているリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は、不愛想で人を寄せ付けない男だった。孤独な日々を送る中で突如、兄が亡くなったという知らせを受け、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ることとなる。しかし、リーには故郷での悲しい過去があり……。

 

◆レビュー

今回はベンアフレックの弟、ケイシー・アフレック主演の『マンチェスター・バイ・ザ・シー』をレビューします。2017年度(第89回)アカデミー賞において、主演男優賞、脚本賞を受賞。華々しい評価の半面であまり目立った印象のないのは、宣伝の影響が強いからでしょう。私は本作をTSUTAYAでレンタルして鑑賞したのですが、店内に並んでいた在庫の少なさに唖然。同じくアカデミー賞関連作品で言えば、『ララランド』『メッセージ』『ムーンライト』辺りは、幅広いスペースを確保し、堂々たる陳列と販促が行われているため、これらの作品とは扱いが対照的です。思い起こせば、公開当時からTVやネットでのプロモーションは積極的でなかったように記憶しています。

それもそのはず。この静かな作品の雰囲気を考えれば、万人受けするものでないのは明白で、大々的な広告はかえって釣り合わないと思いました。

 

〈多くを語らない演出〉

とにかく、静かな作品です。

その作風は、主人公のキャラクターに体現されています。人との関わりを避けて、寡黙に独りで生きる姿は、辛い過去が影を落としていることの表れです。

リーの暗い孤独の色は、社会的に当然な営みをしている人達とは明らかに異質なものです。物語序盤でリーが黙々と便利屋の仕事をしている場面。行く先々で家主と事務的な会話をするのですが、彼らは家族や友人との関わりをもち、人の輪に組み込まれています。会話の節々にあるやり取りの中から、リーと普通の人との差が露わになるのが、地味ながら巧みです。

その直後のバーでのシーンでも、明らかに女性から近づきアプローチをしてきているのに、避けてしまいます。その女性が他の男と酒を飲んでいる姿もチラッと画面に映り、何とも哀愁漂う場面です。

思えば、本当に独りになりたいのならば、家に籠っていればよいもの。バーに独りで飲んでいる人間の心理には、人の輪の中にいたい欲求が隠れているのではないでしょうか。これらの描写が表すもの、リーは心のどこかで“繋がり”を求めていたことが見て取れます。

静けさと言えば、マンチェスター・バイ・ザ・シーの情景も、良い味出しています。淀んだ灰色の曇り空と、その色彩を反射した海の水面が画面全体に広がります。降りしきる雪は激しさはないが、積雪から立ち上る冷気が針の様に皮膚を刺激する。そこから伝わるヒリヒリとした痛みは、リーの感じている孤独な心情と呼応します。

本作の公式サイト調べると、この町は観光地としての側面もあるものの、漁業あまり振るわないとのことでした。町の寂れた雰囲気が、映画の世界観をしっかりと醸成させています。

演出に関して、全編に亘って無駄なセリフを削っているのが英断です。

兄の葬儀のシーンや、ラストの漁船で釣りをするシーンなど肝心な場面では、特に静寂が画面を支配します。セリフで語られるのは、物語のテーマとは直接的には関係ない日常的な会話で、そのやり取りの滑らかさには、実は高度な技量が要求されます。

物語を通して何かを伝える時、どうしてもそのメッセージを直接語りたくなるもの。そこをグッとこらえる忍耐があるかないかが分かれ道となる。

本作でアカデミー脚本賞を受賞したケネス・ロナーガンが評価されたのは、この“あえて語らない”決断力が大きかったのだと考えます。主人公リーのキャラクター、マンチェスター・バイ・ザ・シーの雰囲気、悲しみと対峙する物語、すべてを考慮したうえで、作品の解釈をわれわれ観客に投げかける勇気を持った脚本だと言えます。

 

〈血の繋がりがもたらすもの〉

ストーリーが動きだすとっかかりは、兄ジョー・チャンドラー(カイル・チャンドラー)の死とそれに端を発した後見人問題です。リーはこの件で否応なく甥のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)と交流をもつ羽目になるわけですが、感心したのはこの二人の距離感です。

変にべたべたしない男二人の関係性が絶妙な塩梅になっています。リーは自分の犯した過失から自責の念に捕らわれ続けていて、パトリックは一見明るく振る舞ってはいるものの、父を失った痛みを心底にしまいこんでいます。共に痛みを抱えるもの同士が、心を通わせていく過程は、むずがゆいような微々たる心理の変化でしか現れません。

結局二人は、一緒に住むのではなく別々に暮らす道を選ぶわけですが、この選択も彼ららしい道だといえます。

それでも、二人の関係を愛おしく思うのは、不器用ながら互いに慮る感情が芽生えているのがわかるからです。ラストシーン周辺のやり取りがなんとも秀逸。リーが新居の話をする際「ソファーベットを買うか」と言うところ、パトリックをいつでも迎え入れる気持ちをぶっきらぼうに表しています。そして二人が、道端でボール遊びをする後姿が微笑ましい。

どうしようもなく悲しい時、なにも言わなくてもただ隣に寄り添う誰かがいるだけで、人の心は癒されるものです。

後見人制度とは本来、未成年者の援助を目的としています。しかし、助けられたのはパトリックだけでなく、制度によって引き寄せられたリー自身もでした。

血の繋がりや、そこに関わる法や制度はよくできたもので、人との関わりを繋ぎ止め、孤独から救い出す“鎖”の役割を担っています。

 

〈重層的な構造〉

本作の構成として、時系列を交互に重ねる重層的な造りになっています。一つ目の時系列は、現在、兄のジョーが亡くなり、リーが孤独に過ごしているとき。二つ目の時系列は、過去、リーがマンチェスター・バイ・ザ・シーで暮らし、妻も子供もいたとき。

この物語構造は、とても機能的な構造と言えます。

一つ目は、主人公のバックグラウンドを掘り下げるにあたっての流暢な語り口としての機能。そのままの時系列順に並べた構成にすれば冗長で退屈になりそうなもの。特に本作のような静かで派手な動きのない映画の場合、顕著に退屈が表れる恐れが強い。その点、重層構造を取り入れることで、主人公の過去をミステリー要素を含ませ、本作を幾分か刺激的に成立させています。

二つ目は、主人公の孤独を引き立たせるための対比の機能。過去のリーは、家族があり、友人もいて明るく社交的な人物でした。重層構造を駆使して、現在のリーの不愛想で寡黙な様子と交互に描き対比させることで、彼の変わり様を明瞭に表現しています。その落差が大きいほど、彼の抱えていた罪悪感がより強く感じられるのです。

三つ目は、リーの混濁した精神状態を表す機能があります。現在のリーがソファーでうたた寝をした場面、瞬間、娘たちが近づいてきて、過去のエピソードに移ったのかと錯覚するのですが、それはリーの夢でした。あの場面のある種の騙し演出は、重層構造があったからこそ機能が強まり、観客をドキッとさせます。あのワンシーンだけでも、主人公の不安定な心情が読み取れます。

セリフだけではなく、構成についても考え抜かれた造りであることが分かります。

 

マンチェスター・バイ・ザ・シー

物語の舞台はなぜ、マンチェスター・バイ・ザ・シーでなければならなかったのでしょうか?

前述した、町の雰囲気が非常に良いことに加えて、もう一歩踏み込んだ考えをしてみようと思います。

以下に『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の公式サイトより、ケイシー・アフレックのインタビューを引用します。

 

 

——ケネスはどうやって彼自身は知らない町の地元感を出したんでしょうか?

「そう、彼はマンチェスター・バイ・ザ・シーに行ったことがなかったと思う。彼の『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』や『マーガレット』はニューヨークが舞台だ。ほかにも彼は南部のどこかの町を舞台にした、劇の脚本を書いたこともある。彼の脚本はまるで地元で育った人が書いたとしか思えないものだ。耳がいいだけでなく、たぶん万人に通じる話し方に精通してるのだと思う。地域特有のアクセントやスラング、口調なんかは身につけることが可能だけど、脚本で重要なことは、物語の内容や登場人物たちの描写の仕方。彼の脚本は魔法みたいだよ。登場人物はみな複雑で、本物の人間みたいだ

 

 

上記のような発言にあるように、監督、脚本のケネス・ロナーガンは、マンチェスター・バイ・ザ・シーとあまり縁が深くないようです。それでも、舞台にこの町を選んだからには、理由があることが推測できます。

私が着目したのは、町の名前に関する歴史です。

一通り調べたところ、“マンチェスター・バイ・ザ・シー”という町の名前は、その成立が一風変わっていることが分かりました。

マンチェスター・バイ・ザ・シー”はマサチューセッツ州に属しており、元々はシンプルに“マンチェスター”という名前の町でした。ところが、近郊のニューハンプシャー州の巨大都市も“マンチェスター”という同じ名前だったため、両都市の混合を避ける目的で、マサチューセッツ州の“マンチェスター”を“マンチェスター・バイ・ザ・シー”と改名しました。

ニューハンプシャー州の“マンチェスター”は人口10万人程の工業都市で、非常に栄えています。

対して、本作の舞台であるマサチューセッツ州の“マンチェスター・バイ・ザ・シー”は、人口5千人程の海沿いの町で、こじんまりとした静か雰囲気があります。

両都市の対比は、栄えて賑やかな都市と、寂れた町と言い換えることが出来ます。

つまり、この現実における町の対比は、本作の重層構造によって描かれてきた主人公リーの過去と現在の対比と対応関係にあるのだと考えられます。

愛する家族がいて、人に囲まれた生活を送っていた過去のリーに相当するのが、ニューハンプシャー州の巨大都市“マンチェスター”です。

孤独に寂しく暮らしている現在のリーに相当するのが、マサチューセッツ州の寂れた町“マンチェスター・バイ・ザ・シー”です。

また、マサチューセッツ州の“マンチェスター”から“マンチェスター・バイ・ザ・シー”への名称の変化は、人に囲まれていた過去から、人との繋がりのない寂しい現在のリー自身の変貌とイコールと考えます。

素朴で変哲もない外見とは裏腹に、舞台になる町にもさりげなく高度な意味付を持たせ、映画を読み解く楽しみを多様に盛り込んだ本作。観た人すべてを魅了する、とまでは言わないまでも、孤独な誰かの心に染み入るような作品であることは間違いありません。

 

◆余談

ほんとに余談なんですけど、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の劇中でスタートレック論争がチラッとあります。前回の『ローガン』のレビューにて、いつかスタートレックに絡めたことを書きたいといった矢先に本作を観てたので、妙に感激しました。ほんとただの偶然でしょうけど。そもそも本筋と一切関係ない所でスタートレックの話がでてくるし……。

ちなみに、このレビュー内で「バーに独りで飲んでいる人間の心理には、人の輪の中にいたい欲求が隠れている」という理屈を使いましたが、これは新スタートレックの第五シーズン「流浪のベイジョー星人」より、バーで一人うちひしがれるロー・ラレン少尉に対し、ウーピー・ゴールドバーグ演じるガイナンがたしなめる際の発言から影響されたものです。

もしかしたら、ケネス・ロナーガンもそこから影響受けて、バーのシーンを入れたのかな?なんて深読み(多分違うか)をしました。

こんなマニアックな話をして、果たして通じるか不安ですが、誰かわかる人がいたらレスポンスください。

『ローガン』原題『LOGAN』レビュー ~彼はヒーロー足り得たのか~

 ◆基本情報

・2017年6月 日本公開 

・監督 ジェームズ・マンゴールド  脚本 ジェームズ・マンゴールドマイケル・グリーンスコット・フランク

・出演  ヒュー・ジャックマンパトリック・スチュワート、ダネフ・キーン

 

◆あらすじ

ニュータントが生まれなくなってから25年。ローガン(ヒュー・ジャックマン)はリムジンの運転手をしながら、ひっそりと暮らしていた。かつて、ニュータントたちを救い、導いてきたチャールズ・エグゼビア(パトリック・スチュワート)は認知症を患い、日々の生活もままならない状態だった。

資金を貯め、国外に逃れようとしていたローガンに、ある女性から依頼が申し込まれる。それは、一人の少女を救ってほしいというものだった。

 

◆レビュー

このブログでジェームズ・マンゴールド監督作品を扱うのはこれで二回目で、以前『17歳のカルテ』をレビューしました。

 

movielocallove.hatenablog.com

X-MENシリーズの最新作にしてウルヴァリンシリーズの完結作である『ローガン』。

私はX-MENシリーズへの思い入れがそれなりにあるほうで、初期三部作から追いかけて、ここ数年の新三部作やらスピンオフシリーズを漏れなく鑑賞しています。

一応ファンと言って差し支えないとは思います。もっとも、ここで注釈を入れるならば、アクション娯楽大作としての支軸で捉えてたからこその評価になります。

シリーズの長期化に伴うインフレは避けられないもので、その点含めて楽しめるのか、あるいは許せるのかが、本シリーズの認識の枝分かれと結実します。

上記のような人気シリーズゆえの宿命を背負っているのは確かですが、本作『ローガン』に限っては、また別の観点で興味深い映画だったと言えます。

前述した『17歳のカルテ』のレビューでも触れているのですが、ジェームズ・マンゴールド監督は特に近年、大作映画への傾倒が強いと言えます。一見、本作『ローガン』もその大作映画の一つに組み込まれているようにも見えますが、実はむしろ、監督の初期作品群にあった繊細なドラマ性に重きを置いている作品となっています。

これは孤独な男の物語です。彼は能力故に永い人生を強いられてきました。愛する者を失って、それでも歩んできた人生の最後、ローガンが獲得したものに、感傷の思いをこらえきれませんでした。

 

X-MENシリーズのおさらい〉

非常に息の長いシリーズの為、簡単な概要を書いておきます。なお、作品内時系列と、映画公開の時系列は特に揃えていないためご注意を。

まずは2000年公開、ブライアン・シンガー監督の『X-MEN』から始まります。続いて『X-MEN2(2003)』『X-MEN ファイナルディシジョン(2006)』までの三部作が作られます。

その後チャールズ・エグゼビアとマグニートを中心に据えた『X-MEN ファーストジェネレーション(2011)』『X-MEN ヒューチャー&パスト(2014)』『X-MENアポカリプス(2016)』が制作されます。

主にこれら6作品が本シリーズの主軸と捉えられ、そこから派生する形でウルヴァリンのスピンオフ作品に繋がります。

ウルヴァリン誕生の秘密を描いた『ウルヴァリン X-MEN ZERO(2009)』、ウルヴァリンが日本で活躍する『ウルヴァリン SANURAI(2013)』と着々と作られてきました。

本作の監督ジェームズ・マンゴールドは『ウルヴァリン SANURAI(2013)』を手掛けたことで、『ローガン』の監督に抜擢されたことは明らかです。

しかし、私の見解では『ウルヴァリン SANURAI』はどう見ても、出来がいいいとは言えない代物で、シリーズワーストは避けられないと思います。

話が突飛すぎるのは、この手のジャンル映画ではどうにもならない部分です。それでも他の作品群が、何とかして保とうとしていた説得力は、この『ウルヴァリン SANURAI』には、決定的に欠如しています。

その原因は、ハリウッド映画特有と言うべきか、日本要素への捉え方の方向性が微妙にずれていからだと考えらます。日本へのリスペクトがあるのは認めますし、すべて間違っているわけではないのですが、ある種、戯画化した描き方をすることで生じる浮遊感がどうしても拭えない。それに加えて、SF映画の孕む「嘘っぽさ」とが融合し、結果的にリアリティの喪失を招くこととなりました。

では、そんな流れを汲む『ローガン』はどのような作品だったのでしょうか?

 

〈凄惨なアクションシーン〉

冒頭のシーンから、この作品のテイストが明快に提示されています。

商売道具のリムジンで眠っていたローガンが、柄の悪い、不穏な物音で目を覚まし、そこにはメキシカンギャングが、車の部品を盗もうとする姿があります。

注意しようとするローガンに対して、問答無用で銃を放つ瞬間は、ハッと息を飲む感覚に襲われました。

驚異の回復力を持つはずのウルヴァリンですが、その能力が陰り、衰えていている様も伝わりました。

高々ギャング数人に、手こずってしまうのが何とも痛々しく、今まであらゆる強敵と対峙してきたヒーロー・ウルヴァリンの終焉が見て取れます。

以前ならばどんな傷でもたちどころに治っていたのが、今となってはそうはいきません。ローガンが鏡の前で、胸に撃ち込まれた弾丸を力みながら押し出すところは、自傷的かつ官能的な名シーンです。もちろん、ヒュー・ジャックマンの妖艶なまでの肉体美があってこそ成立したことは、言うまでもありません。

最大の武器の三本ある鉤爪の内、一本が伸びきれず、自力で引き伸ばす様子は憐れみの色さえ滲みでていました。

老いて、力を失うローガンとは反対に存在するのが、11歳の子役ダネフ・キーン演じるローラです。爬虫類的な愛らしい顔つきが印象深いうえ、演技も素晴らしく、凶暴さと子供の無邪気さを併せ持つ好演をしていました。

ローラの子供ならではのアクションシーンは必見。身軽に飛びかかり、容赦なく首を引き裂く様子は、残忍だけれど爽快感の宿った立ち回りでした。ローラのアクションシーンでは、『キック・アス』のヒット・ガールを想起させられました。

序盤で出てくるカーチェイスも工夫が凝らされて、キャラクターの持つ強みだけに捕らわれない、アクションの基礎地も確かです。

本作のアクションシーンに通底しているのは、その凄惨さです。血しぶきをあげ、あっけなく切り落とされる生首や腕。特別強調するのではなく、さもありなんと見せられるグロテスクな描写の数々は、現実に根差した本作のテーマを考慮すれば必然です。R-15指定も避けがたい措置と言えます。

これらの凄惨なアクションシーンは、今までのX-MENシリーズで描かれていたそれとは対照的です。これまでのはヒーロー映画におけるアクションです。つまり具体的な描写を省き、あるいは簡略化することで、凄惨さを避けてきました。あくまで、娯楽に従事するための暴力だったものが、本作ではその暴力の持つ本質を真っ向から描いています。

今まで、ヒーロー・ウルヴァリンがしてきた行いを、真の意味で振り返ると言う意味において、これらのグロテスクな描写は必要不可欠と言えます。

 

〈苦悩する人間としての彼ら〉

チャールズ・エグゼビアと言うキャラクターは、若いころの姿をジェームズ・マカヴォイが演じ、老年になってからの姿をパトリック・スチュワートが演じています。マカヴォィのチャールズもセクシーでそれはそれで良いのですが、パトリック・スチュワートのチャールズは絶対的に頼れる存在感を醸し出していました。

それだけに、スチュワート版のチャールズが認知症を患っている場面は、ショッキングです。思慮深く、理知的だったチャールズも、一人の人間だったのだと改めて認識しました。

チャールズが、自分や周りのことを思い出せない姿以上に衝撃的だったのは、彼の死に際のシーンです。シリーズの中でも最重要人物と言っても過言ではないチャールズが、あんなにあっけなく殺されてしまうとは、本当に予想できませんでした。

チャールズの死は、いくらでも感傷的に演出できそうなところなのに、あえて淡白に過ぎ去ってしまうかのように描かれます。これには理由が考えられ、一つに、今作のリアリティ路線の追及に即した演出を取ったからでしょう。しかし、変に大仰な演出にするよりも、引き算した演出の効果で、大切な人を失った喪失感はかえって浮き彫りになります。

もう一つは、あくまでこの物語はローガンという孤独な男に焦点を当てたかったのかと考えました。ローガンにとって父性を象徴するチャールズが無機質な死を迎えることで、ローガンの孤立した心情が深まります。

その孤独な男が抱える苦悩こそ、本作の主題である罪と罰にまつわる葛藤です。

戦争を経験し、その後もヒーローとして、幾人もの人間を殺してきたローガンの背負った十字架は、果たして許されるものなのか?先に書いた、暴力の本質はこのテーマへの助走だったことは、言うまでもありません。

劇中で流れる映画『シェーン』のセリフ「一度人を殺してしまった者は元には戻れない」がテーマを読み解くキーワードになります。

チャールズを失い、「エデン」も実在はしません。最期ローガンに残されたのは、ローラだけです。ローラはローガンと同じ能力を人為的に植え付けられた、人工のニュータントで、そのため、遺伝上のつながりはあるのでしょう。しかし、それよりも旅を続ける中で芽生えた精神的な繋がりの父性の方が先だっているのだと考えられます。

彼女を救うことが、ウルヴァリンに課せられた最後の使命です。

 

〈ヒーロー性の奪還〉

ローガンが最後に対峙する相手が、自分のクローンであることも当然意味深いところ。

敵対者は、能力が衰える前の自分。殺人の罪を重ね戦うことでしか存在意義を見出せなかったかつての自身の投影であると言えます。

ローガンが人を傷つける夢にうなされ、何かに怯えながら暮らしてきたのは、過去の自分の行いから逃げ続けていたからです。

彼が最後に戦う理由は一つ。ただ、ローラを守ることだけです。

ローガンの無残な死にざまに象徴されるように、結局殺人の罪を犯した人間が安寧を得て最期を迎えることは叶わないのかもしれません。

それでも、ローガンの死に意味があるのは、ローラを守ろうと立ち上がったことに尽きます。誰かを守ることがヒーローの本質ならば、ローガンはそれを最後まで全うできたのだと言えます。

ラストシーン、ローガンの墓に立てられた十字架を、ローラが横たえ「X」の文字に見立てます。十字架を下ろし罪人としての彼を許すとともに、X-MENを司る「X」の文字がヒーローとしての彼を象徴させているのです。

人は誰かのために命を懸けてヒーローに成り得たとき、過去に犯した罪を贖うことが出来るのではないでしょうか?

ローガンの求めいていた問の答えはここに示されます。ローラを救ったことで、ローガン自身を救ったことにもなりました。

ローラもまた孤独な人生の中で誰かのヒーローになったとき、罪の決着をつけることになります。愛する父、ローガンがそうであったように。

 

この作品は『ウルヴァリン SANURAI』での負債を十二分に返すに値すると断言します。ジェームズ・マンゴールド監督の哲学的テーマ性を刻印しつつ、エンタメ性も損なわない『ローガン』は、「ヒュー・ジャックマン最後のウルヴァリン」の触れ込みに釣り合う傑作でした。但し、最低限『ウルヴァリン X-MEN ZERO』辺りは観ておいたほうが無難でしょう。

 

◆余談

二か月位ブログの更新が滞ってしまいました。理由はよくあることで、私生活の方が忙しかったから。ブログ休む理由って、大抵の人が私生活が忙しいからでしょうから、面白くもない理由ですよね。

あと、これからはなるべく、月に二、三回は更新するよう心掛るつもりです。

 

チャールズ役のパトリック・スチュワートは、スタートレックピカード艦長役が大好きです。ひいては、スタトレが好きなので、いつかこのブログでも、スタートレックに絡めた記事をかけたらなと考えています。いつになるかはわかりませんが……。