『シング・ストリート 未来へのうた』原題『Sing Street』レビュー ~理想の実現、その限界点~

◆基本情報

・2016日本公開 

・監督 ジョン・カーニー 脚本 ジョン・カーニー

・出演 フェルディア・ウォルシュ=ビーロ、 ルーシー・ボーイントン、 ジャック・レイナ―、 ベン・キャロラン、 マーク・マッケンナ

 

◆あらすじ

コナー(フェルディア・ウォルシュ=ビーロ)は、不況によって家計が圧迫され、カトリック系の厳格な高校に転校することになった。そこではいじめっ子に目をつけられ、校長に強権的な仕打ちを受けていた。家族もバラバラになっており、鬱屈とした現実の中にいたコナーだったが、一人の女の子の気を引きたい思いから仲間を募りバンドを始めることになる。

 

◆レビュー

監督は音楽に深く携わってきた経験を活かして『ONCE ダブリンの街角で』『はじまりのうた』などの映画を作ってきました。本作も同じ路線で作られた青春物語となっており、紛れもない傑作と言えるでしょう。

正直な話をすると、私は音楽には疎くてほとんど聞きません。流行りの曲なんかもコンビニやらテレビのCMで流れているのを耳にする程度です。但し、映画に関連した音楽なら興味が出ます。それは「映画」という作品世界を構築するにあたり、音楽が切っても切り離せない関係にあるからです。

本作で流れる名曲のポップスたちは、映画に付随する演出装置の役割を超えて、映画に清涼な息を吹き込こんでいます。作中の彼らの抱える悶々とした霧を浄化する「力」を携えているのです。

 

アイルランドという国〉

まずは本作の舞台となるアイルランドについて簡単なおさらい。

人口は、およそ470万人、面積7万300平方メートルで北海道と同じぐらい、首都・ダブリン。以前はイギリスの支配下にあったが、独立戦争を経て現在は分離し独立しています。

畜産業が盛んに行われており、乳製品や牛肉を多く海外に輸出している。また、ジャガイモの栽培でも有名で、アイルランドの郷土料理にはジャガイモは欠かせない材料となっている様です。

経済面で言えば、アイルランドは1990年代にITの多大な恩恵により、急激な経済成長を遂げて、現在では非常に豊かな国の一つになっています。

本作の時代設定は1985年になっているため、国が豊かになる夜明け前と言ったところでしょうか。当時のアイルランドは経済不況に苦しんでおり失業率17%に象徴されている様に、行き場のない閉塞感に満ちていました。劇中の初めには、このような危機的状況が描かれ、主人公の家族もその影響をもろに受けています。

ちなみに以前レビューした『ブルックリン』もアイルランドで燻っていた少女がアメリカに渡るお話でした。

movielocallove.hatenablog.com

あの作品は1950年という設定だったので、本作とは時代的に少しズレは生じているものの、やはりアイルランドの停滞した状況は共通しています。

こうやって見ると、1990年代までのアイルランドの扱いが少しおざなりに思えます。どうも「何もない田舎」のステレオタイプとして扱われているようで少し不憫な気も……。

私の中では、牧羊とケルト文化が特徴で、自然と伝統の美しさをイメージしていました。兎角プラスの印象ばかり抱いていたのですが、それはあくまで観光で訪れるにあたっての話なのでしょう。この二作を見ると、その土地で暮らす人にとっては、なかなか切実な歴史を経てきたことが想像できます。

 

〈家族と学校、その閉塞感〉

主人公のコナーは15歳の高校生、とすれば彼を取り巻く世界は大きく二つしかありません。

一つは家族との関係について。前述した不況のため父親のロバート(エイダン・ギレン)は職を失っており、母親のペニー(マリア・ドイル・ケネディ)は浮気をしています。当然と言うべきか、夫婦仲は最悪でいつも喧嘩が絶えません。冒頭コナーが自室にいる場面、壁越しに両親の罵り合う声が聞こえてくるシーンはややありがちですが、彼の家庭環境をうまく切り取っています。子供にとって逃れられない存在である両親、そこの関係が不安定である状況のやるせなさが、コナーの悩みの一因となっています。

この両親ついて、共に悪人として描写されていません。父親が失業したのも、社会全体のうねりに逆らえなかった為です。母親の浮気も、夫が妻をないがしろにしてきたバックグラウンドが入っているため、むしろ同情的な目線で見れます。母親が夕日を眺めながら、新聞を読む後ろ姿は、物悲しく映る。

兄のブレンダンも、人生に挫折し立ち上がれないままでいます。彼の語る「ジェットエンジン」の例えから、この場所から這い上がれない者の苦痛がひしひしと伝わります。ブレンダンは、映画の中盤までコナーの音楽の師匠として頼れる存在だっただけに、余計胸を締め付けられる思いがします。

二つ目のコナーの世界は、学校です。厳格なカットリック系のシングストリート高校に転校した先で待っていたのは、強権的な校長といじめっ子のバリーでした。

コナーが茶色い革靴を履いてくると、校長は「黒い靴でなければならない」と頑として認めず、結局彼は裸足で歩くことになます。何より一番強烈だったのが、髪を染めてきたコナーに対し、校長は無理やり洗面台に彼の顔を押し付け、石鹸で髪を洗うシーンです。ここから、学校における校長の立ち位置、絶対に逆らえない権力者としての顔が伺えます。

バリーも、直接的な暴力を振るうのですが、中でもパチンコで脅すところが畏怖感を覚えます。しかし、このバリーは一方的な敵対者としてではなく、彼も劣悪な家庭環境に押しつぶされている子供の側面も、後に明かされます。

コナーを取り巻いているのは、自分一人の力ではどうすることもできない世界。80年代アイルランドの経済に呼応するように、彼の現実も先行きの見えない圧迫感に潰されかけているようです。

 

〈コナーにとっての音楽〉

コナーが音楽を始めたきっかけは、ラフィーナ(ルーシー・ボイルトン)の気を引くための嘘からでした。しかし、音楽をすることは、次第に別の意味合いを持つようになります。

劇中のコナーのセリフで「この場所から抜け出せないけど、うまくやっていく」というものがあります。このセリフに象徴されるように、彼にとっての音楽とは、どうにもならない現実を打開し、生きていくための拠り所になっているのです。

バンド仲間と創意工夫をしながら音楽を造り上げていく過程で、今まであった鬱屈が徐々に忘れられていくのが見てとてます。

両親が喧嘩しているとき、ブレンダンの部屋でレコードをかけることで辛い現実の音を文字通り打ち消しています。

個人的な体験なんですが、私自身も生きていくうえで辛い現実に直面することが多々あり、そんなとき、自分の支えになるのが映画だったり、文学だったりします。もっと言えば、このブログも自分の中にある何かを吐き出すことで、現実に立ち向かう原動力になっています。音楽にせよ、映画や本にせよ、芸術によって何かが救われる気持ちは同じです。そういった意味で、この作品に非常に感情移入してました。芸術による救済は、種類は様々ですが普遍的感覚なのではないでしょうか?

 

〈音楽によって願った理想〉

私がこの作品の中で最も心惹かれたのは、『Drive it Like You Store it』を演奏するシーンです。ノリの良い曲が放つ解放感と、映画としての物語上のメッセージ性とが混然一体となり、圧倒的な吸引力をもっています。

この曲のコンセプトとして『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でのプロムのダンスシーンを意識しています。あの映画では、タイムマシンを使って過去に遡り、両親に関わる過去を変えたことで、未来も変えていました。つまり、超科学的な力に頼り、本来ならば変えられない現実を変えていしまう物語。それと同じように、この『シング・ストリート』では、音楽のというイマジネーションの力によって、どうにもならない現実を変えることを願っています。

このシーンのコナーの空想では、すべてが思い通りになった理想的な幻影が映し出されます。

思いを寄せるラフィーナは美しくドレスアップした姿で現れ、モデルの夢を体現しています。両親は仲睦ましく手を取り合い踊り、兄のブレンダンは颯爽とバイクで現れます。あの横暴だった校長は打って変わって朗らかに音楽に身を委ねています。

この曲を演奏している間だけは、辛い現実は綺麗に消え去り、ただ幸せの絶頂のままでいられるのです。しかし、演奏が終われば元の現実に引き戻されてしまいます。

音楽の力では、現実を「すべて」覆したいというコナーの願いは叶いませんでした。

 

〈音楽によって変えられた現実〉

『Drive it Like You Store it』の演奏シーンでは、現実に影響を与えることが出来ませんでした。しかし、その代替としてプロムでの演奏シーンが入ります。

その中でも『Brown Shoes』の演奏シーンで、彼らは小さな革命を起こします。

バクスター校長に一矢報いることに成功し、自分たちの音楽をやりぬいたこの場面、カタルシスがあるのは確かですが、結局は現実は変えることはできていません。

あそこで、校長に恥をかかせたところで、プロムが終わればまたいつもの強権体制に戻るのは明白です。また、バンドメンバーにバリーを加えて、彼の救済もなされたように思えますが、家に帰れば劣悪な環境に逆戻りです。

コナーの両親の離婚も避けられないままですし、ブレンダンの現状もいきなり好転するものでもありません。

それでも、この作品が伝えたいのは、音楽によって変えることができる「ほんの僅かな何か」の大切さなのだと思います。

現実には変えることの出来ない強大な事柄ばかりです。それでも自分の自身が変われば、未来も少し変えることが出来るのかもしれないという、リアリズムに則った着地が力強くも心地よい。

現実における限界点を見極め、「すべて」は無理でも「ほんの少し」だったならと、未来へのポジティブな展望を抱かせるのが、この作品の主張だと言えます。

コナーとラフィーナは、渡った海の先でどのような人生を築くのでしょうか?

 

◆私的な話

映画のレビューを書く際に苦慮するのが、音楽の扱いについてです。なんか、音楽の良さを文章で表現するのって恐ろしく難解な作業に思えてならない。

だって音楽って感覚的に聞くものでしょう?リズムやら音程やらのどこが良いのか、言語化するってどうすればいいのか見当つかないんですよ。

ミュージカル映画とかで音楽の持つ意味合いが、映画のストーリーに絡んでくるとどうしたものかと思っちゃいます。今回の『シング・ストリート』でも、曲の持つメッセージ性にもっと切り込んだ内容にできれば理想的だったんですが、そうもいかず……。まあ、本作で描かれているように、「すべて」うまくやろうなんて無理な話なんでしょう。という風に、自分を慰めて締めくくります。

『17歳のカルテ』原題『Girl,Interrupted』レビュー ~彼女と世界の境界線~

◆基本情報

・2000年日本公開 

・監督 ジェームズ・マンゴールド  脚本 ジェームズ・マンゴールド、 リサ・ルーマー、 アンナ・ハミルトン・フェラン 

・出演 ウィノナ・ライダー、 アンジェリーナ・ジョリー、 ウーピー・ゴールドバーグ

 

◆あらすじ

18歳になり高校卒業を迎えたスザンナ(ウィノナ・ライダー)は、アスピリンを多量摂取して自殺未遂をした。彼女の精神的な不安定さを危惧した両親は、精神科の病院に入るよう勧める。

スザンナは病院の中で、同じように心因的な病気に苦しむ女性たちと生活をともにし、その中でも患者達のリーダー、リサ(アンジェリーナ・ジョリー)と親交を深めるようになる。

 

◆レビュー

ジェームズ・マンゴールド監督の作品はいくつか鑑賞しており、『アイデンティティ』『ナイト&デイ』なんかはお気に入りです。最近では娯楽性重視の大作が目立っていますが、それ以前はヒューマン映画を多く手掛けていました。今回レビューする『17歳のカルテ』も、その中の一本で、精神的に不安定な少女の繊細な心理を切り取った作品になっています。

なお、本作はスザンナ・ケイセンの『思春期病棟の少女たち(日本語題)』という自伝をベースにしています。

 

〈彼女らの抱えるもの〉

本作の主人公スザンナは境界線パーソナリティー障害をに苦しんでいます。ざっと調べたところ、この病気は二極化した感情に揺れ動き、社会的な関係性に支障をきたすものだそうです。また、リストカットや薬物、性行為などで自分を傷つけることも症状の一つとされています。

劇中のスザンナの行動はまさにこの症状の通りで、入院のきっかけの自殺未遂や、知人の大学教授、パーティで知り合った同級生の兄、病院の男性看護師などとの衝動的な性行為、抑鬱な感情などが描かれます。これらのシーンは沈んだ色調の絵造り、音楽の演出が痛々しく、自伝の持ち味であるリアリティを遺憾なく映画で表現できていると言えます。

また、スザンナが両親同席でカウンセリングを受けるシーンで、父は世間体ばかりを気にして、母は悲しむばかりと、彼女のことを本当は見ていないことがわかります。

スザンナが知り合ったばかりの男性とセックスを終えた後、自身の悲壮な気持ちを告白するのですが男は「そんな話やめよう」と言います。彼女の複雑な胸の内は病院の外の人間、つまりは普通の人々からは理解されていません。

劇中、スザンナは「死のうとしたんじゃない。くだらないものを終わらせようとしたんだ」と語りますが、このセリフから鬱屈とした彼女の現状が推し量れます。彼女は死にたいのではなく、今、目の前にある人生にうまく折り合いがつかないだけなのです。その言葉は、本当はこの現実、世界にどうしても溶け込み、生きていきたいという強い気持ちの裏返しだとも言えます。

この作品で大きな存在感を放つのが、アンジェリーナ・ジョリー演じるリサというキャラクターです。非常にエキセントリックな性格で、暴力的な行動をしたかと思うと、明るく看護婦や患者と談笑する姿が描かれます。彼女のもつ雰囲気は結果的には周囲を魅了しており、他者を支配する力に長けています。

患者みんなで、外出してアイスクリームを食べに行くシーン。スザンナが以前不倫してしまった大学教授の奥さんと出くわし、リサがスザンナを庇うように、奥さんを罵倒したのは印象的。また、リサが患者達を先導する形で、夜中の病院内を徘徊する場面でも、リサの持つ他人を引き付ける力が良くわかります。

物語上にうまいと思うのは、リサを単純に暴力的な陰の性質のみで描いていないことです。上記のようなシーンの積み重ねでリサの陽の部分を見せ、彼女の人物造形に奥行きを持たせています。通常の映画でもそうですが、本作の様に精神的な病気を扱った作品だと、人間の性格の矛盾や多面性に踏み込んだ描写が一層必要となります。

ともあれ、映画の中盤まではリサの善良性が垣間見えます。この印象は、我々観客の視点と主人公のスザンナが共有してもつ感覚となっているのも、後々ポイントとなっています。

他、拒食症と父親との関係に悩むデイジー、虚言癖のあるジェイミー、顔に火傷を負ったポリーなど、様々な問題を抱えた女性たちが登場します。

画面からは薄暗い雰囲気が一貫して漂ってはいる反面で、彼女のたちがどこか楽し気な表情を浮べているのは、同じような境遇にある者たちの共感があったからです。本作ではこの世界から疎外され、病院という隔絶された空間にしか居場所を見出せない女性たちの姿が描かれます。

 

〈1960年代アメリカの情勢〉

この作品の時代背景は1960年代となっており、劇中の随所にその要素がちりばめられています。

スザンナと関係を待った髭面の男が徴兵されるとの話題からはベトナム反戦運動、病院内のテレビで放送されているキング牧師の死亡ニュースからは公民権運動の気運が伺えます。

そして、序盤にスザンナの不倫相手の奥さんや、高校の教師から語られるように、女性解放運動の兆候も見て取れます。

当時のアメリカは激動の時代と言え、社会のあらゆる面で分裂し、対立していました。ベトナム戦争の長期化による財政悪化、黒人差別撤廃を巡る暴動の発生など、激しく変遷を遂げる中で何が答えか模索していた情勢であると言えます。

本作で秀逸なのは、この時代性をスザンナをはじめとした女性患者たちの抱える問題に反映させた造りになっていることです。要するに、激動する世界の中で翻弄され、答えの見えない人間の象徴をして彼女らの存在が位置付られているのです。思春期の感受性豊かな女性たちにとって、精神的な病気になるというのは、病院の外の矛盾した辛い現実から逃れるための自己防衛だといえます。

特にスザンナの抱える境界性パーソナリティー障害は、最も顕著なメタファーで、相反する感情を自身の中で処理できない苦しみは、当時のアメリカ社会が抱える分裂の構図そのものです。

また女性解放運動という女性が外の社会に進出する動向と、スザンナたちが精神病院の中から外へ解放されたいという願いも重なり合わせてあります。その点に関しては、黒人女性が優遇されない中で女優として活躍してきたウーピー・ゴールドバーグが出演していることからも本作の姿勢がよく伝わります。

時代の動きを映画に反映させる構成は名作『フォレスト・ガンプ』でも使われていましたが、本作では、特にジェンダー的視点に重きを置かれているのが特色です。

 

〈精神的な病気への視線〉

中盤まで陽的な側面が際立っていたリサでしたが、デイジーに対する罵詈雑言によって陰の顔が表面化しました。デイジーの心の内を読み、追い詰める様は異常に攻撃的。更には、デイジーが自殺したのを見ても「いずれこいつはやった」と言い放つところで、決定的に異質な存在になっています。中盤まで善良性を見せていただけに余計にショッキングです。

そのリサとスザンナとの対立がラストに設けられていますが、こここそスザンナの心の解放が象徴されている所です。

リサが何年も病院の中で過ごしてきたのは外の世界を恐れてきたため。自分と同じような崖っぷちの人間たちを支配することでしか、安らぎを得られなかったからです。劇中に描かれていた少女たちの連帯も同じように、崖っぷちだからこそのものでした。

スザンナがリサを打ち負かせたのは、自分の病気を理解するよう努め、病院という箱庭から自立する強さを獲得したから。その自立の原動力になったのは物書きになりたいという夢と、自分の中にある感情を日記に吐き出すことによる癒しです。

矛盾して嘘ばかりの外の世界に立ち向かうスザンナの姿は力強く、凛々しい。スザンナは、入院するときと退院するときタクシーに乗るのですが、それぞれの顔つきは見違えるように違います。

                                                                                     

この作品が素晴らしいのは、スザンナが病院の中の人たちと決別して終わらない所です。

スザンナが病院を旅経つとき、ジェイミーやポリー、そしてリサとも和解し、別れを告げています。この結末こそスザンナの答えそのものだといえます。

病気の彼女らを否定しないことは病気だったスザンナ自身を否定していないことになります。そこにあるのは、精神的な病気に対しての、優しい視点です。病院の内側の人たちは「異常」、病院の外の人たちは「普通」などと定義するのではなく、両者の間には本当は境界線などないのだと訴えかけているようです。そして、スザンナも二極化された自身の感情、両方ひっくるめて自分なのだと受け入れることが出来ました。それは、外の矛盾した世界と自分との境界線をも取っ払ったことを意味しているのです。

スザンナたちの再会を想像させるラストシーンでは、彼女らの幸せそうな表情目に浮かびます。そう思えるほど映画の世界に引き込まれました。

 

精神的な病気で苦しんでいる人にとって、この作品の持つ暖かいメッセージはきっと一抹の安らぎになるのではないでしょうか?是非鑑賞してみてください。

 

◆私的な話

ジェームズ・マンゴールド監督の作品かなり好きなんです。特に『アイデンティティ』は、一時期どんでん返し映画に嵌っていた頃に出会った忘れられない一作。膝を叩くような意外な落ちもさることながら、設定と雰囲気が抜群に好みです。雨の中、偶然モーテルに居合わせた男女。そして一人また一人と姿を消していくという展開。がっつりストライクゾーンに入りました。

彼の作品はいくつか観ていないものもあるので、また探してみますかね。

『ヴィジット』原題『The visit』レビュー ~特効薬の力 ホラーがもたらす効用~

  ◆基本情報

・2015年日本公開 

・監督 M・ナイト・シャマラン  脚本 M・ナイト・シャマラン

・出演 オリヴィア・デヨング、 エド・オクセンボウルド、 ディアナ・ダナガン、 ピーター・マクロビー、 キャサリン・ハーン 

 

◆あらすじ

ベッカ(オリヴィア・デヨング)とタイラーと(エド・オクセンボウルド)は、疎遠になっていた祖父母の家を訪ねる。シングルマザーの母親は家出同然で駆け落ちした過去があり、そのことから祖父母と確執ができていた。

初めて会う祖父母と穏やかな休日を過ごすはずが、次第に老人二人の持つ異常性が明らかになっていく。

 

◆レビュー

この作品が劇場公開されていた当時の予告CMを良く覚えています。初めこそ、感動のホームドラマの雰囲気にしておき、いきなりホラー映画としての色を前面に押し出す演出をとっていました。あのCMは日本公開用に作られたものでしょうが、ある意味この作品の特徴をうまく捉えた編集だったのだと言えます。

 

〈分類不明なジャンル〉

本作は大別すればホラー映画であり、当然純粋に怖いシーンはいくつもあります。

タイラーが隠しカメラを仕掛け、それを老婆が見つけるシーン。この手の映画としてはオーソドックの範疇を出ませんが、少なくともホラー慣れしていない人間には十分な迫力でしょう(かくいう私がそう思った)。また、終盤近くにおけるどんでん返しは既視感がありつつも、鳥肌が立つような静かな恐怖を演出できていたと思います。

他、木に吊るされたステイシーが一瞬だけ映り込むシーンは『ブレアウィッチプロジェクト』のラストシーンを彷彿とさせます。『ブレアウィッチプロジェクト』と言えば、本作は実際のホームビデオの映像視点で撮影されているpov方式を採用していおり、少し意識したのかもしれません。

上記のところだけを見るとよくあるホラー作品に留まりますが、本作は怖いシーンでも笑えたり、悲しかったりと他の感情をも刺激する要素が入っています。

例えば、ベッカとタイラーが床下でかくれんぼするシーン。老婆が四つん這いになって追いかけてくる所は最も怖い場面であることは請け合いです。しかし、外の明るみに出ると途端に恐怖感は霧散し、老婆のスカートがめくれて半分尻を出している後姿でシュールなコミカルさが一気に込み上げます。また、タイラーと老婆がゲームをしていたシーンで、ビスケットを貪り食っていた老婆がカメラ目線で叫ぶところも、ストーリーの進行に反してなぜだか笑えてしまいます。

劇中終盤に流れるミュージカル曲の優美さと、ストーリ上の悲壮感のアンバランス感がこの作品の基本スタンスを体現しています。

本作はホラーという一色に収まらず多様な要素を組み込み、後述するテーマ性とも手を結び、大変見応えのある作品に仕上がっていると思いました。このジャンルにとらわれないフレキシブルな作風こそ、シャマランの特色なのでしょう。

 

〈老人と子供の対比〉

老人たちの正体は作中で明かされるように、精神病棟から抜け出した患者でした。彼らの背景のすべてを把握することはできませんが、彼らの子供を巡る出来事があったことは理解できます。

老婆が取り乱すトリガーになるのは、自身の子供とのことを触れられたときです。井戸に子供を捨てた経緯は不明ですが、そのことへの懺悔や苦悩が彼女の異常性を駆り立てたのでしょう。

老人が誰かに尾行されているという被害妄想を抱くのは、子供を遺棄したことによる罪悪感と、いつ捕まるのかのという危険意識からくるものだと考えられます。

子供側の二人もそれぞれ家族に関わる問題を抱え苦しむ様子が描かれています。

ベッカ―は父親との別れにしこりが残ったことに起因し、自身の存在価値を実感できずにいます。鏡で自分の事を直視できないのは、父親に捨てられたと思っている自分を肯定し、受け入れることができない為です。更に透けて見えるのは父親への憎悪と以上に、母親が悲しみに暮れる事への共鳴的な感情です。祖父母と決別した母親の苦しみを、ベッカー自身の抱える父親へのコンプレックスと紐づけし、自己投影しているように見られます。ベッカーの問題解決には、母親の救済が不可分なものなのでしょう。

タイラーの抱えている問題は潔癖症です。ここにも父性の喪失が関連しており、精神の不安定さに対抗するための手段として現れています。対抗手段という意味では、タイラーのやっているラップも自己表現を通して喪失の痛みを和らげる意味合いを担っているのかもしれません。

最後の対決のシーンで、ベッカーとタイラーは各々の抱える問題に対峙します。ベッカーは鏡を、タイラーは潔癖症を克服して危機を脱します。その時二人の乗り越えるべき相手として老婆と老人が設定されているわけです。

 

〈特効薬の意味〉

上記の対決のシーンがベッカーとタイラーの問題解決のきっかけになったのは明らかですが、果たしてそれが本当に二人の救済に成り得たのでしょうか?

一見すると、老人二人を打倒したことでベッカーとタイラーは精神の歪みが正常化されたように思われがちですが、私の見解は違います。

ここで見逃せないのが、ベッカーとタイラーは、自己防衛のためとはいえ殺人を犯しているということです。映画の編集上、対決後の二人の苦悩は描かれないため表面化していませんが、殺人の事実は二人の精神を更に侵食したことは想像に難くありません。二人の経験はむしろマイナスに作用したと考えるべきあり、もっと言えばあのまま救済がなされなければ、ベッカーとタイラーは老人達のような行く末を辿っていたことでしょう。

では、何がベッカーとタイラーの精神の救済になったのかというと、母親からの「特効薬=愛情」だと言えます。終盤、母親のインタビューで「あなたの為に話すの」と前置きをいれています。つまり、殺人という悲惨な経験をした二人を救うために、母親自身の過去を打ち明けたのだと言えます。いかに子供たちに愛情を持っているのかを示すことで「許し」の大切さを伝えました。

子供たちににとっての「許し」とは母親からの無条件の肯定であり、同時に母親にとっての「許し」とは子供たちからのその愛情の反響にあったのです。

特効薬というキーワードは、ベッカーが老婆にインタビューするところで出てきます。ベッカーが、「ある女の子の話」を通じて許しの大切さを説いたあのシーン、老婆の見せた涙は心からのものだったのだと画面から伝わってきます。

ラスト、ベッカーが鏡に面と向かって髪をとかすことができたのも、タイラーが潔癖症をラップの題材にできたのも、偏に母の特効薬があったからです。

 

本作はジャンルをホラーに設定することで、恐怖という人間の負の側面を背景に立てています。しかしそこから浮かび上がるのは親子の愛情の物語です。暗がりの中だからこそ、精彩に明かりが際立つ構造になっています。

ついでにいえば、シャマランの代表作『シックス・センス』でも同じようにホラーと親子愛の対比がなされています。そういった共通項も含めてシャマラン監督の新たな代表作と言えるのではないでしょうか。

 

◆私的な話

実を言うと最初は、床下でかくれんぼするシーンほとんど目を伏せながら見ていました。だって姉弟二人があそこに入った瞬間に「あ、駄目だ。絶対怖いやつ来る」ていうのがわかっちゃうんですもん。そしたら案の定ド迫力の老婆が追っかけてくるし……。

でもレビューを書くにあたって、映画を部分的にせよ見ないというのはいかんと思い、何度もDVDを巻き戻しながらあのシーンに食い下がりました。そんで、少しづつ感覚を慣れさせながら、徐々に視界を遮っていた指の感覚を広げていくという、涙ぐましいい努力を繰り返しました。やっと画面を直視できたのは果たして何回目だったのだろうか?

『セッション』原題『Whiplash』レビュー ~天才の完成 最終場面の解釈を巡って~ 

◆基本情報

・2015年日本公開 

・監督 デミアン・チャゼル 脚本 デミアン・チャゼル

・出演 マイルズ・テラー、 J・K・シモンズ

 

◆あらすじ

全米一の名門音楽学校に入学したアンドリュー(マイルズ・テラー)は、そこで随一の指揮者フレッチャー(J・K・シモンズ)に目をかけられる。しかし、アンドリューを待っていたのは、鬼教師フレッチャーの過酷なレッスンだった。次第に精神をすり減らしていくアンドリューはついに限界がきて、ある演奏会の場でフレッチャーに殴りかかってしまう。その出来事を契機に学校を辞めたアンドリューだったが、フレッチャーの誘いにより、再び音楽の世界に身を投じることになるが……。

 

◆レビュー

今回レビューするのは、本年度(2017年度)大いに話題になった『ララランド』のデミアン・チャゼル監督の出世作『セッション』です。

この作品は2015年度のアカデミー賞三部門を受賞したほか、公開当時から様々な論争を巻き起こるなど注目を集めました。そのため、評論や感想は出尽くした感がある作品ですが、あえて私はこの作品のレビューをしようと思います。というのも本作の最終場面の解釈に関してどうしても言いたいことがあるからなんです。

 

〈アンドリューを取り巻く環境〉

元々アンドリューという青年は比較的おとなしい人物として描かれ、常識とある程度の社交性を持っています。父親と仲良くに映画館に行くところはのどかですし、人並みに恋をするのは普通の大学生と同じようです。

但し、その日常の中でも野心の片鱗を見せています。恋人のニコールが具体的な目標を持たずに大学を決めたことを聞いたシーンでは、すこし怪訝な表情を浮かべています。アンドリューの潜在的に持つ野心と、彼女の考えとの乖離が見て取れます。

親類との食事会では音楽業界自体を過小評価され、大学で一番下のリーグのアメフトMVPの方が評価されます。音楽で偉業をなすことを目指しているアンドリューにとって耐えがたい苦痛でしょう。しかも親類だけならまだしも、信頼している父親からも理解を得られないことがこのシーンでわかります。

アンドリューは穏やかだけれど、決して自分の才能を評価されない環境の中でくすぶっていた。その中から抜きん出ようとする渇望がわかります。

 

〈過酷なレッスン〉

本作で際立って描かれるのは、執拗で暴力的なまでのレッスンです。そのレッスンでは二つの側面からアンドリューを追い詰めていきます。

第一に肉体的な側面に関して。

最もよく表れているのは、中盤でドラムの三人を何度も交代させながら体力の限界になるまで演奏させ、徹底的に追い込むシーンです。テクニックを磨く目的というよりもただ体を苛め抜くことが目的になっています。薄暗い空間の中に怒号とドラムの音だけが永遠鳴り響き、苦悶の表情が印象的です。そして、手の平からにじみ出た血が痛々しく映ります。このシーンに限らずですが血の見せ方がうまく使われており、アンドリューがいかに過酷な練習をしてきたのかが視覚的に表現されています。

第二に精神的な側面に関して。

レッスン中、フレッチャーは相手を怒鳴り散らして支配する手法を使っていますが、それだけではありません。ドラムの主奏者の席を奪い合うようにアンドリュー、タナ―、コノリーの三人を競わせる構造を作り上げているのです。フレッチャーは暴力的なだけではなく、心理的に相手を操る術を駆使していることが分かります。

本作の全体にある切迫感は、アンドリューの感じている精神的な揺らぎが観客に伝わっているからだと考えられます。それはマイルズ・テラーの演技による表情の変化、初めはどこか間抜けでお人よしそうだった青年が徐々に目の奥に狂気を滲ませていく様に表れています。アンドリューがバスに乗った際に、ぶつぶつと一人ことを言っているシーンや、他の演奏者に強くあたり散らすシーンで彼の変わり様が伺えます。

 

フレッチャーの過去〉

劇中彼の教え子が自殺してしまったという連絡が入るシーン。フレッチャーは心の底から自責の念を抱いていることが分かります。彼の目的はどこまで行っても天才を作り上げる事だと言えます

フレッチャーが、チャーリー・パーカージョージョーンズのエピソードを語るシーン、彼は言います。この世で一番危険な言葉は「上出来だ」なのだと。絶対に音楽に妥協しないことが天才の必須条件であると彼は語っているのです。

 

〈ラストの演奏〉

最後の演奏前にフレッチャーは罠を仕掛けます。アンドリューにわざと演奏するのとは違う曲を伝え、彼に恥をかかせたのです。このシーンでは大きく二つの解釈が可能です。というよりも作り手の意図として、解釈に選択肢を持たせるような構造になっているのです。

一つ目はフレッチャーが、自分を密告をしたと思っているアンドリューに対して純粋に復讐する目的で罠を仕掛けたという解釈です。

そして二つ目は、フレッチャーは自分を憎ませるようにアンドリューに仕組み、アンドリューが再び立ち上がるのを見越してあえて、罠を仕掛けたという解釈です。つまり、フレッチャーは演技をしていたということになります。

この解釈を紐解く上で私が注目したのが、アンドリューの代わりのドラム奏者が不在であるという事実です。

あの演奏会はフレッチャーにとっても名誉がかかったもので、そこでの失敗は彼自身にも相当な痛手のはずです。フレッチャーがあくまで復讐だけを目的としていた場合、当然に代打のドラム奏者を用意していなければ、その後の演奏は成り立たなくなってしまいます。

またフレッチャーは以前より、競争原理によって生徒を支配する手法を使っていました。そのことも踏まえると代わりの演奏者がいたほうが、アンドリューへより強い精神的なダメージを与えられると考えそうなものです。

これらは明らかに不自然です。つまり、フレッチャーは代わりの奏者が要らないことが分かっていた。アンドリューが必ず戻ってくることを確信していたからに他なりません。

フレッチャーがここまでしたのは、アンドリューを「何もない孤独な状態」に追い込むことが目的だったのだと考えます。

アンドリューは恋人と別れ、父親とも距離ができていきます。そんな彼に残っていたのは、音楽とフレッチャーだったのです。アンドリューはフレッチャーをただ憎んでいただけではなく、自分を導いてくれる存在として依存していたのでしょう。最後アンドリューには何もありません。自分の存在をかけて演奏するしかアンドリューには道が残されていなかったのです。

劇中アンドリューの口からも語られているように、チャーリー・パーカーは孤独なまま死を迎えました。偉大になるには一つの分野に徹底して打ち込むしかありません。その為には周囲の人間など邪魔でしかなく、結果的に孤独であることが天才の条件の一つなのかもしれません。

ラストの演奏の前半はあくまでフレッチャーの予想の範囲内の出来栄えだったのが、後半それを超えた次元の演奏を披露します。フレッチャーの表情の変化が、それを如実に物語っています。

あの演奏シーンに心をわしづかみにされた観客は大勢いたことでしょう。それは演奏の途中で真の天才があの場に誕生したからです。狂気の先にある圧倒的なカタルシスには誰もが飲み込まれるのです。

 

◆私的な話

デミアン・チャゼル監督は『セッション』『ララランド』で完璧に監督としての地位を確立しましたね。共に音楽を題材にした傑作だったのですが、驚くべきは次回作に宇宙飛行士の伝記ものを選んだことです。今までの作品は監督の経験が大きく反映されたものになっていただけに、全く違う趣向の作品を作ったらどうなるのかすごく楽しみです。あんまり予想がつかないという意味もありますが……。

あと、レビューへの反応があればうれしいです。『セッション』みたいに解釈の余地が残されている作品の方が、人と意見を言い合ったりで楽しめます。よろしくお願いします。

『ドント・ブリーズ』原題『Don't Breathe』レビュー ~倫理と金の物語~

◆基本情報
・2016年日本公開
・監督 フェデ・アルバレス ・脚本 フェデ・アルバレス、 ロド・サヤゲス
・出演 ジェーン・レビィ、 ディラン・ミネット、 ダニエル・ソヴァット、 スティーブン・ラング

◆あらすじ
盲目の老人宅に大金があることを知った若者三人は、強盗に入ることを決める。当初の計画では簡単に事が済むはずだったが、老人の抱える秘密が明かになり……。

◆レビュー
〈ホラー映画としての到達点〉
この作品に一貫してあるのは、ホラーとしての緊張感です。さほど過激な描写を入れていないのに、常に急き立てられるような張りつめた空気が伝わります。
よくホラー映画で幽霊やら殺人鬼に追いかけられた末、押し入れなどに身を隠してやり過ごすシーンがあります。あのようなシーンにハラハラとした緊張感があるのは、今にも敵対者に見つかってしまうという、薄氷を踏むかのような状況設定がなされているからです。
その点で本作は、「盲目」という設定により、敵対者が目の前にいるのにギリギリ接触しない状況を造り上げることに成功しています。それにより、本来なら刹那的なはずの緊張感を、常時保ち続けることができているのです。
他にも個別のシーンそれぞれに意匠を凝らしてあります。
マニー(ダニエル・ソヴァット)が盲目の老人を眠らせに行くシーン。老人は先程まで眠っていたのに、マニーが一瞬目線を切ると、ベットから体を起こしています。テレビでは老人の一人娘の幼い頃の映像が流れており、その声がかえって不気味に響きます。
地下室で老人がブレイカーを落としたシーンでは、今まで優位を保っていた若者二人が、老人と同じ条件に追い込まれ、緊迫感のベクトルが変わります。
ラスト20分間では、一度脱出できたロッキー(ジェーン・レビィ)が犬に襲われ、その難を逃れた矢先に再び捕まるなど、二転三転する構成力を見せます。この映画は、正味一時間半もないにも関わらず、終盤付近では「流石にもう終わってくれ」と思うほどの疲労感があります。(いい意味でです)
エンターテイメント性の追求という意味では、抜群の出来だと言えます。

〈それぞれの倫理〉
本作はキャラクターの掘り下げに伴う人物造形もしっかりしています。そこから浮かび上がるのは、彼らの抱える人生と倫理観です。
ロッキーは苛烈な家庭環境の中で妹を守るために盗みに手を染めています。
アレックスは父のセキュリティ会社の情報を利用するも、その父に迷惑をかけられないといった一面を見せます。また、1万ドル以上は盗まないといった線引きをするなど、むしろ理知的で好青年な印象すら感じます。
一番粗野なイメージのマニーですら、老人に最後まで威嚇射撃しかせず、死に際に仲間を庇う様子を見せます。
彼らには事情を抱えながらも犯罪をしてしまう人間臭さがあります。ひいては、人間としての倫理観を保ち、その一線を踏み越えない人物たちとして描かれています。
対する老人も異常性の際立つ描写はいくらでもありますが、背景に娘を失った悲しみも抱えています。
そして令嬢への報復の手段にも、ある種の筋の通し方も伺えます。そのため、老人にも理解できる部分があります。
老人と強盗三人組との戦いは、それぞれが抱える倫理観のぶつかり合いでもあるのです。

〈金の問題〉
盲目の老人があそこまでの異常者になったのは、娘を殺した令嬢への怒りだけだったのしょうか?
そもそもこの物語は、老人宅に多額の示談金があることに端を発しています。しかしよく考えれば、この設定自体に矛盾があることがわかります。
老人が令嬢を監禁し妊娠させたのは娘の代役を求めた為。理論上、それだけで老人の復讐は完成されるはずです。しかし老人が示談金を受け取ってしまえば、憎むべき相手からの施しを受け入れたことになってしまいます。
また、老人は反社会ではあれど、彼なりの筋の通し方にこだわりを持っていることは明らかです。
この矛盾を踏まえて考えれると、老人には、愛する娘を殺した相手に迎合し、金を受け取ってしまった後悔があった。つまりは、金の誘惑に屈服した自分自身への怒りが、老人の異常者へと掻き立てたのではないかと推測できます。
ラストシーン、ロッキーは選択を迫られます。
警察に通報した直後、その場に留まりあの家で行われた出来事を明らかにする道、あるいは金を持って逃走する道です。そして後者を選びました。彼女はあれだけ悲惨な出来事にあいながらも、金を得ることを選びました。
彼女が前者の道を選んでいたならば、アレックスとマニーがただの強盗として死んだのではないこと、老人がただの盲目の被害者ではないことが明らかになっていたことでしょう。
物語の結末は大きく変わっていたことになります。

結論として、本作で描かれているのは、倫理観に葛藤しながらも、金に翻弄される人間の物語です。人間の持つ強欲さが罪の始まりであるのだ、というテーマが隠されていると考えます。

娯楽性を楽しむも良し、テーマ性を紐解いても良しの本作は、多くの人におすすめしたいです。但し、色々とエグい描写も多いので、その点だけ注意をしてください。

◆私的な話
本作で盲目の老人を演じていた俳優は、スティーブン・ラングという方で、調べたらそこそこキャリアを積んでらっしゃいました。
ただ、この人を初めて見てモーガン・フリーマンだと思い込んだのは私だけではないはず……

『ブルックリン』原題『Brooklyn』レビュー ~社会を生き抜くことの代償~

◆基本情報

2016年日本公開

・監督 ジョン・クローリー ・脚本 ニック・ホーンビィ

・出演 シアーシャ・ローナン、 ジム・ファレル、 トニー・フィオレロ

・配給 20世紀フォックス

 

◆あらすじ

アイルランドの田舎町でくすぶっていたエイリッシュ(シアーシャ・ローナン)は、姉のローズの勧めでアメリカのブルックリンに移住する。慣れない土地や人に悪戦苦闘しながらも、少しずつ成長をしいく。その矢先に、故郷のアイルランドから姉が亡くなったとの便りがくる。

 

◆レビュー

2016年度アカデミー賞、作品賞、脚色賞、主演女優賞ノミネート。

本作はアイルランド・イギリス・カナダの合作だそうです。なるほど、その情報を知って本作のスタイリッシュな絵面に納得しました。ついでにもう少し調べたら、一般の観客と批評家の両方からの評判が上々の様子です。

そして私もこの映画全面的に支持します。その理由として、衣装や美術のディティールの華やかさとは裏腹に、綺麗ごとだけじゃすまない現実に即したテーマを内包していることがあります。

 

〈ケリーの人物像〉

アイルランドで雑貨店の店主をしているケリーは、非常に意地が悪い人間として描かれています。エイリッシュへは冷たく接し、自分の店であるのをいいことに、客の買い物にも口出しをして横暴な態度をしめしています。しかし、ケリーはただ単に嫌な側面だけを持っているわけではありません。同じシーンで、常連さんと思しき女性を優先させています。ここから、狡猾で計算高い人物像が分かります。このような世渡りの術を心得ているからこそ、店主として生き残ってこれたのかもしれません。

また冒頭の数分間の合理的かつ何気ない描写で、ケリーの人物像を表した監督の腕前に感心しました。

 

〈エイリッシュの変化〉

初め彼女は不器用でおとなしい少女で、新しい環境に適応できていませんでした。そこから大学で簿記の勉強、トニーとの恋を通じて変化していきます。まずはその変化の例を主に三つ挙げます。

一つ目は、仕事に関して。

初めはぎこちなかったのが、見違えるような対応を習得しています。自分に自信をもって喋っているため、お客さにもそれが伝わっていることがわかります。

二つ目は、人間関係に関して。

同居人の小姑のような二人組から嘲笑さても黙って耐えるしかなかったのが、彼女らとうまく付き合うようになっています。ただし注意すべきは、この関係性の変化には代償が伴っているということです。下宿先に新入りの少女が入ってきますが、この子を排除することでエイリッシュは自分の立場を確保しました。その証拠がダンスパーティーのシーン。小姑二人からトイレに呼び出され、口紅を塗ってもらいます。このワンシーンだけで、今までの対立の関係性でなくなったことが把握できます。その後の下宿先での食事のシーン、彼女らとエイリッシュが談笑する傍らで、新入りの少女は僅かに居心地悪そうにしています。微妙な心理の機微を的確に捉えた描写になっています。

また、恋人のトニーからダンスパーティーから抜けださないかと持ち掛けられた際には「同じ寮の子だけど、ひどいの」などと言い、新入りの少女を置き去りにしています。

このように誰かを排除すること、もっと言えばいじめることで仲間内の連帯感が増すメカニズムは、現実の社会でもよく見られる光景です。

三つ目は、恋愛の巧妙さに関して。

アイルランドにいた頃の彼女は恋愛に奥手な少女でした。ダンスパーティに行っても男性から誘われず、そのまま帰ってしまいます。エイリッシュの寂しげな心情は、少し長めの彼女の表情のショットで映像的に表現されています。

ところが、ブルックリンではトニーと恋人になり、スムーズに婚約までこぎつけます。ここまでなら特に問題ないのですが、エイリッシュがアイルランドに帰省してからが肝心で、トニーという別の男性と出会い恋愛関係になります。二人の男性を天秤にかける計算高さが伺えます。

エイリッシュは強い女性に成長した反面で、以前の純真さを失ってしまったのです。

 

〈二人の対決シーン〉

エイリッシュとケリーの対決シーンは本作のクライマックスにあたります。

エイリッシュが「私の名前はエイリッシュ・フィオレロ」と毅然と言い放つところは、カタルシス溢れる名場面になっています。それは、傲慢で狡猾な魔女を打ち負かしたところに爽快感があるのですが、どこか釈然としない部分もあります。なぜならば、実際はエイリッシュの不誠実な落ち度があったために、ケリーに追及されてしまったからです。

上記のエイリッシュの人物像で述べたように、彼女もまた狡猾な側面を持っています。つまりはエイリッシュも、少なからずケリーと同じような人間になったのだと言えます。ケリーはエイリッシュの負の側面を投影した人物になっています。

エイリッシュはケリーに対抗できる人間になったというよりも、対抗できる人間になってしまったと言ったほうが正確でしょう。

社会で生きていく為には綺麗ごとだけでは済まないことばかりです。女性の社会的立場が極めて弱かった時代背景を考えれば、なおのことでしょう。その世界の中では純真なままではいられないのだ、というのが本作の主題だと考えます。

 

〈ラストの船出のシーン〉

エイリッシュが初めてブルックリンに渡る船の中で、相部屋になる女性と話します。彼女は初め無関心な態度でしたが、エイリッシュが船酔いになり、別の部屋の人間から嫌がらせを受けていると知ると、急に親切になります。また、初めは譲らなかった二段ベットの一段目を、さりげなく譲っていることにこの女性のやさしさが隠されています。

エイリッシュは、この女性からブルックリンで暮らすうえでの心得を教えてもらいます。劇中終盤にエイリッシュがブルックリンにに帰るとき、同じくブルックリンに移住する少女にこの心得を伝えています。また、この二つのシーンは意識的に同じ造りになっており、エイリッシュの成長をを測る役目を果たしています。

終盤の船のシーンでエイリッシュが少女に優しく接していたのは、以前の自分の姿を重ねたため。純朴だった少女の頃の自分には二度とは戻れないのだ、という感情があったからだと考えます。また、あの少女の純朴さも、エイリッシュと同じように現実を生きるなかで消えていくものなのでしょう。

郷土への思い、自分へ追走、そういったものを抱えながらもブルックリンで生きていくことを決めた一人の女性の姿が、最後には描かれているのです。

 

綺麗ごとだけでは済まない現実を見せながらも、それに立ち向かう一人の女性の姿に心を動かされます。そしてエイリッシュの成長の軌跡は、大人になった人間ならだれもが身につまされる思いがするのではないでしょうか?

このリアリティ溢れる部分にこそ、本作の人気の秘密が隠されているのだといえます。

 

〈私的な話〉

私は権威主義とかあまり好きじゃないのですが、何やかんやでアカデミー賞に絡んだ作品に目がいっちゃいます。というのも、やっぱり面白いからなんですよね。結局何かしら見所がなくちゃノミネートされないですもんね。

ちなみに、アカデミー賞は純粋に作品の質に基づいて決まるのではなく、アメリカの社会情勢が密接に関係したものです。初めこのことを知った時は、なんだか釈然としませんでした。今はその辺の事情も含めて楽しむようにしています。

『きっと星せいじゃない』原題『The Fault in our star』レビュ― ~途中で終わった物語とは~

 ◆基本情報

・2014年日本公開

・監督 ジョシュ・ブーン ・脚本 スコット・ノイスタッター/マイケル・H・ウェバー

・出演 シェイリーン・ウッドリー アンセン・エルゴート

・配給 20世紀フォックス

 

◆あらすじ

ヘイゼル(シェイリーン・ウッドリー)は末期がんにより、幼少期より自由な生活ができなかった。学校にも通えず、友達もいない日々を過ごしていた彼女だが、グループセラピーに参加した際、骨肉腫を克服した少年ガス(アンセル・エルゴート)と出会う。次第に惹かれ合っていく二人だったが…。

 

◆レビュー

難病物の恋愛映画という、ありふれたジャンルですが、よく作りこまれていました。この作品は人の死、そして死によって取り残される人々の「その後」にフォーカスが当てられています。

〈二人の人物像〉

物語の序盤で語られるのは、ヘイゼルの退屈で孤独な日々です。同じ年頃の子が堪能している青春をほとんど得ることのできない日々。その象徴として毎日同じ本ばかり読んでいることが描かれています。そして、その日々を変えたのがガスと出会いだった。彼から勧められたSFゲームのノベライズ本を読んでいることこそ、彼女が決まりきった日々から抜け出し、違う世界に足を踏み出した変化の象徴となっています。

一方のガスは、一見病気を克服した明るい青年のように見えます。表面上彼は弱みを見せることはほとんどありません。しかし、細かい点に彼の弱さが現れています。グループセラピーで語っていたように彼は「忘却」を恐れていました。人々の記憶に残る人生を送りたいということは、自分の死後のことを想像しての発言です。

また、火のついていない煙草をくわえるのは、命を奪うものへの抵抗の意味があるためです。ガスが飛行機に乗るときに煙草をくわえていて、キャビンアテンダントに注意される場面があります。これは飛行機が墜落するのではという死の恐怖を紛らわしたかったからでしょう。

つまり彼自身、本当は死の恐怖から逃れられていなかったのです。

 

〈結末のない本〉

二人の物語を語るうえで重要なキーアイテムになるのが、ヴァンホーテン(ウィリアム・デフォー)の本です。

劇中でヘイゼルは、結末が描かれず途中で終わってしまったこの本に異様に固執し、その後の登場人物の事を知りたがります。なぜならば、自分自身と同じだからです。つまり、結末のない本に、がんによって若く死んでしまうであろう自分を投影し、重ねていたからにほかなりません。自分の死後家族はどうなってしまうのだろうか?自分の人生に意味はあったのだろうか?その答えを知りたいという願いが、無意識のうちに彼女の行動原理となっていたのです。

実際、本の著者であるヴァンホーテンも娘を白血病で亡くしています。そのため、娘をモデルにしたアンナの物語の続きを書くことができなかった。ヴァンホーテンがヘイゼルと初めて対面したときに侮辱したのは、自分の娘とヘイゼルを重ねたためです。

 

〈トロッコ問題の意味〉

ガスの葬儀の直後、ヴァンホーテンが言いかけたトロッコ問題について触れておきます。

ロッコ問題とは、路線上に止まることの出来ないトロッコがある。このまま進めば路線上の五人が死ぬ。しかし、ある人物が分岐器のすぐ近くにいる。進路を切り替えれば、五人は助かるが、切り替えた先にもう一人の人物がいて、その人物は助からない。という状況を想定しての倫理学の問題です。

この問題で確実に言えるのは、誰かの犠牲によって救われる人間もいるということです。

ヴァンホーテンは「途中で終わってしまった物語=死」によって、救われる何かもあると言いたかったのではないでしょうか?

 

〈二人の答え〉

ヘイゼルが求めていた答えは、ガスによって導かれます。

ガスは元々多くの人間の記憶にとどまることを求めていました。しかし、死に際にヘイゼルたった一人と愛し合ったことこそ意味があったのだと手紙に書いていました。もちろんヘイゼルも同じように感じていたことは明らかです。ガスが死んでも、ヘイゼルには二人の愛し合った記憶は残る。それだけで彼の人生に意味があったものだと言えます。

ヘイゼルが近い将来死を迎えても、ガスと出会えたことこそが意味になりえる。また、彼女の家族の記憶にも、ヘイゼルとの思いで刻まれるだけで意味があります。

ヘイゼルは皮肉にも大切な人の死によって、「途中で終わった物語のその後」つまりは「残された者の物語」を体験することとなりました。この点が上記のトロッコ問題と係っています。

 

冒頭、ヘイゼルの語りにあるように悲しい物語をどうやって語るかは本人次第です。人の死も、自分の死もどう捉えるかによって意味が変わります。

本来悲しい物語を美しく、ときにユーモラスに語った本作は紛れもなく傑作でしょう。

 

◆私的な話

恋愛映画というジャンル自体ちょっと苦手なんですよね。客観視して作品として見る分には大丈夫なんですが、主観的にはあまり入り込めないというか……。まあ、一般的な男の映画好きなんて大概そうですかね。

でもこの作品を見て、そんな偏見を捨てもっと鑑賞していこうと思えました。未開拓のジャンルなので、今後、私の知らない傑作たちと出会えるかもしれません。