日本版『50回目のファーストキス』レビュー ~リメイクしたことの意義 オリジナルとの徹底比較~

◆基本情報

①日本版                            

・2018年6月 公開

・監督 福田雄一  ・脚本  福田雄一

・出演 山田孝之、 長澤まさみ、 ムロツヨシ、 佐野史郎、 太賀

 

アメリカ版                     

・2005年6月 日本公開

・監督 ピーター・シーガル  ・脚本 ジョージ・ウィング

・出演 アダム・サンドラー、 ドリュー・バリモア、 ロブ・シュナイダー、 ショーン・アスティン

 

◆あらすじ(日本版)

ハワイでツアーガイドのバイトをする傍ら、天文学に携わる弓削大輔(山田孝之)は、日本人観光客との行きずりの関係を楽しむ毎日を送っていた。そんな折、カフェで偶然出会った藤島瑠衣(長澤まさみ)に一目惚れをしてしまう。いつもの調子でナンパに成功した大輔だったが翌日、瑠衣に話しかけると、彼女は大輔のことなど知らないと言う。実は瑠衣には悲しい秘密があり……。

 

◆感想

ついにこの時が来たのか……。そんな思いを抱きながら劇場に足を運び、『50回目のファーストキス(2018)』を鑑賞してきました。

私が恋愛映画で最も優れている作品だと思うのは、他でもなく、ピーター・シーガル監督の『50回目のファースト・キス(2005)』です。

初め、こんな完璧な作品を日本版にリメイクすると聞いた時、言い知れぬ不安を覚えました。なぜなら、私の中では神格化すらしている作品の為、どのように改良を図っても上積みがないのではと考えたからです。

本作に限らずですが、何らかのリメイクを作るにあたって、原作のファンがうるさく反応してしまうのはよくあること。傍から見ていると、そういった原作信者は厄介者でしかありません。そういった人に対して、私は普段「もっと広い心で作品を観れば良いのに」と冷めた反応をしてきました。しかし、自分が原作を敬愛する立場になり、原作を愛しすぎる人達の気持ちがわからないでもないとも感じます。

そういった自分の立場を踏まえたうえで、今回のリメイク作への思いを綴っていこうと思います。

なお、『50回目のファースト・キス』という作品は、本来ネタバレなしで観るのがおすすめなのですが、今回のリメイク作で大々的にネタバレして宣伝しているため、その点の配慮も全くしない方針をとります。もっとも、いつもネタバレ気にしてないですけどね……。

 

ピーター・シーガル版の位置付け〉

繰り返しになりますが、ピーター・シーガル版の『50回目のファースト・キス』は紛れもない名作だと断言します。私が誰かに「恋愛映画で面白い作品ない?」と聞かれたら、真っ先にピーター・シーガル版を勧めているほどです。

では、何をもって名作たらしめているかと言えば、監督のもつ特色と扱っているテーマが渾然一体となった奇跡的な作品であることが挙げられます。

ピーター・シーガル監督の特色は、アメリカらしいコメディと意外性のある展開です。

『ゲットスマート』『ロンゲスト・ヤード』などフィルモグラフィを鑑みれば、監督の方向性が一目瞭然。これらの作品もかなり良くできていているのですが、オールタイムベスト10に名を連ねほどではありません。

その中にあって『50回目のファースト・キス』が、なぜ特別な存在に成り得たかと言えば、記憶障害という深刻なテーマに果敢に挑戦しているからです。

この手の「記憶喪失もの」だと、どうしても悲劇性を全面に打ち出した「お涙頂戴」の作品になるのが普通です。本来悲しいはずのテーマを、悲しいままの作品にする発想は、さほど新鮮であるとは言えません。

対して『50回目のファースト・キス』が秀逸なのは、本来悲しいはずのテーマを、ピーター・シーガルらしい笑いの力で乗り越える、という奇抜な着想にあります。

一見すると、下ネタ全開で行き過ぎたコメディ要素が目立つ作品ですが、それは必要なバランスで、深刻な題材を中和するための清涼剤として笑いが組み込まれているのです。

ルーシー(ドリュー・バリモア)が抱えている短期記憶喪失障害が現実にあれば、人生における紛れもない困難のはず。この作品が素晴らしいのは、耐え難い困難を前にしても、工夫とアイデアをもって立ち向かう希望に溢れたコンセプトにあります。障害や病気があっても、それを笑顔で受け入れたうえで、前向きに生きていく姿に強く胸を打たれました。

オリジナル未見の方がいましたら、是非鑑賞してください。絶対に損しないことをお約束します。

 

福田雄一監督が抜擢された狙い〉

初めこそリメイクの話題で不安を抱えていましたが、作品の成功に期待を持つようになったのは、福田雄一氏が監督に起用されると知ってからです。福田監督が抜擢されたのは、作品のコンセプトを鑑みれば、非常に理にかなった人選であると言えます。

オリジナルを未見の人、あるいは福田監督の純粋なファンの人からすれば、違和感を覚える人選かと思います。しかしある程度、事前知識のある人ならば、すぐにこの抜擢の狙いに気がつくはずです。

前述しましたが、ピーター・シーガル監督はコメディ畑の出身で、しかも、上品で洒脱な笑いではなく、下品で良い意味で馬鹿っぽい笑いを追求しています。

この作品を日本版にリメイクするためには、同じ感性をもった監督が必要不可欠。その意味で、『勇者ヨシヒコ』『銀魂』などの実績のある福田監督は最適だと言えます。

 

〈比較 リメイクの短所〉

リメイクにあたっていくつかの変更点があり、長所と短所がそれぞれ存在します。言うなればコインの裏表の関係で、どこかを伸ばせば、他の部分に歪が生じてまうのが必然です。

まずは短所に関して述べます。

初めに違和感を覚えたのは、外国人キャストとの絡みにちょっとしたノイズがあることです。本作の設定上、物語の舞台には、季節の移り変わりのないハワイであることが肝になっています。オリジナルにおける舞台設定は巧みで称賛されるべき部分であり、日本版においてもその点を踏襲していることは英断ではあります。そのため、ある意味仕方のない部分ではあるのですが、言語の統一が図れていないのが欠点になってしまっています。

舞台をハワイにしながらも、日本映画である以上日本人キャストを多数起用しています。つまり、日本人同士の会話においては日本語が用いられるのですが、外国人キャストとの絡みになると英語をしゃべりだすという状況になっており、コメディの軽妙な掛け合いの足かせになっているのです。

他にも設定に関して言えば、主人公の職業が獣医から天文学者に変更されています。オリジナルにあった海洋生物たちのキュートな演技が消滅ているのは欠点と言えます。動物たちの存在は、可愛らしさと同時にコメディ要員としても大きかったので、残念に思いました。

その動物たちの笑いに取って代わるのが、福田流のお笑いエッセンスです。

本作の成功の鍵は、いかにしてアメリカのコメディを日本的な笑いに変換するかにかかっています。福田節による日本的笑いはかなり成功していると感じましたが、ややもすれば行き過ぎた部分もありました。具体的には、ピコ太郎や宇宙人の着ぐるみなどは度が過ぎていたかなと。

設定の変更で細かい部分ですが、主人公がプレイボーイになった背景を簡略化しているのが頂けなかった。日本版だと「恋愛は研究の邪魔になるから」程度の理由しか説明されていませんが、オリジナルだと「以前付き合っていた恋人に酷い裏切られ方をしたから」となっています。オリジナルの設定のほうが、恋愛の傷を乗り越え真の愛情の価値を実感するというストーリーが強調されるため、その分恋愛映画として厚みがありました。

 

〈比較 リメイクの長所〉

長所に触れれば、何よりキャスティングの妙が挙げられます。主演の二人、山田孝之長澤まさみはイメージにピッタリでした。

オリジナルの主人公ヘンリーを演じるのは、アメリカでは押しも押されぬトップコメディ俳優であるアダム・サンドラー。数々のコメディ映画で主演をはった実績を活かし、オリジナルの成功も彼なしには考えられません。決してハンサム過ぎないけれど、どこか親しみやすい顔つきは、山田孝之の素養と合致しきっていると感じました。また、山田孝之が仕事を選ばない俳優であることも一役買っているのではと考察します。

オリジナルのヒロイン、ルーシーを演じたのはドリュー・バリモアで、愛らしい魅力に溢れた俳優です。長澤まさみの可愛らしい所作は負けず劣らずの破壊力で、特にワッフルハウスを作るシーンなんかは、ドリュー・バリモアを上回っていたかと思います。

ついでですが、同じくカフェでナンパするワンシーンで、大輔が話しかけるのに対して中国語しか話せないふりをして瑠衣があしらう、というくだりがあります。原作にも同一のシーンがあったのですが、日本版だと前述した言語の不一致が効果的に機能して、一層アイディアの面白みが増していました。

他のキャスティングでは、ヒロインの弟の藤島慎太郎を演じた大賀の筋肉キャラが光ってました。なかやまきんに君的芸風をトレースしたあの存在感は、オリジナルにおいて同役を演じたショーン・アスティンへのリスペクトだと言えます。

今回のリメイクでは福田監督流のアレンジを加えつつも、原作を高いレベルで再現しており、その点も見どころの一つ。ナンパで、車のバッテリーに感電したシーンや、暴漢に襲われている所を助けてもらうシーンなどが再現度の高いところ。

オリジナルにあったユーモラスなシーンを、我々日本人の馴染み深いキャストが演じることで感情移入しやすくなっており、作品を再構築した意義が見出されます。

また、2005年に制作られた映画を2018年にリメイクするためには、時代の移り変わりを配慮しなければいけません。日本版では、スマホの扱いに慎重を期して臨んでいたり、瑠衣へのビデオレターの内容が、しっかり現代日本人の理解しやすい話題になっているなど手落ちのない部分でした。

今作で特にうまいなっと感じたのは、終盤で大輔がハワイを離れなければいけない必然性を強化したところです。オリジナルでは海洋生物の研究で船旅に出るため、ハワイを離れることになっていますが、この設定では、いつまでに出港しなければいけないかは、主人公の裁量で自由に決めることができてしまいます。そのため、愛する人と離れなければいけない逼迫感が削がれており、プロット上の弱点になっていました。

その点、今回の日本版では、ワシントンからのオファーによって離れる設定にすることで、人生における千載一遇のチャンスであることが強調されます。主人公が行動するまでにタイムリミットを設けることで、緊張感の高まった展開に調整されており、はっきりとオリジナルの弱点を補強する設定になっているのです。極めてクレバーなリメイク戦略だと感じました。

最後に演出に関して。

ラスト周辺で大輔が飛行機に乗りハワイを離れようとするも、引き返すシーン。瑠衣との思い出の画像を見て、諦めきれないという動機付けによって行動を起こすのです。

対してオリジナルでは、ピーター・シーガル監督らしい一捻りが加わっていました。

船出の直後、ルーシーの父親から託されたビーチボーイズの『素敵じゃないか』を聞いて号泣するヘンリー。その瞬間、この曲がルーシーとの思い出の曲であることに気が付き、父親からのメッセージを汲み取るという趣向です。

このような演出プランの違いからも、今回のリメイクの意義が垣間見えます。

つまり、最高にロマンティックなオリジナル版に、日本の恋愛映画的王道展開を意識した演出プランを採用することで、直情的でエモーショナルな作品に仕上げているのです。

このような部分に『50回目のファースト・キス』を日本人向けに再構築してやろうという、制作陣の挑戦心や気概が隠されているのではないかと考えます。

 

結論として、日本版『50回目のファーストキス』がオリジナルの『50回目のファースト・キス』を超えられたかと言えば答えは「ノー」です。

しかし、この記事で書いてきたように、オリジナルとの比較をするだけでも楽しめる映画にはなっています。また、現代的な時代性を反映させた日本人的趣向の作品として考え抜かれており、リメイク作としてみれば良くできた作品と言えます。

これらの意味において日本版『50回目のファーストキス』の存在意義は確実にあると思います。

 

◆余談

オリジナル版の隠れた楽しみ方を紹介しようと思います。

ルーシーの弟を演じたショーン・アスティンは、『50回目のファーストキス』が制作された2004年の前年まで『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのサム役を演じていました。

あの感動超大作で名演を披露していた男が、翌年には完全なるコメディ要員として、三枚目筋肉キャラに転じているのが、俳優という職業の面白いところです。

オリジナルの『50回目のファーストキス』を観た後に『ロード・オブ・ザ・リング』を鑑賞すると、また別の意味での可笑しさを味わえるので、一緒にレンタルしてみてください。

『ビューティフル・デイ』レビュー ~原題が意味する悲しさと邦題の持つ救い~

◆基本情報                         

・原題『YOU WERE NEVER REALLY HERE

・制作国 イギリス、アメリカ、フランス 

・2018年6月 日本公開

・監督 リン・ラムジー   脚本 リン・ラムジー

・出演 ホアキン・フェニックス、 エカテリーナ・サムソノス、 ジュディアス・ロバーツ、 ダンテ・ペレイラ・オルソン、 アレックス・マネット

 

◆あらすじ

退役軍人のジョー(ホアキン・フェニックス)は、暗殺や人探しなどの汚れ仕事をしながら日々の生活を送っていた。ジョーはある日、州の上院議員の娘ニーナ(エカテリーナ・サムソノス)を探す仕事を引き受ける。彼女を助け出したのも束の間、襲撃されニーナを再び連れ去られてしまう。

 

◆レビュー

映画という媒体がもつ懐の広さは、作品の表現の幅をどこまでも広げることが出来る。

例えば小説という媒体では文章、文字を通じて物語を構築します。豊富な語彙や、その言葉の組み合わせなど、出来事をどう言語化するのかを論理的に楽しめるのが一つの醍醐味です。

対して映画という媒体は、映像を通じて視覚的に伝える手法が精髄であり、非常に感覚的な表現とも言えます。映画の原則として、なんでも台詞で伝えてしまうのはあまり上手ではありません。いかに映像的に伝えることが出来るのかが一つの要点になります。

その意味で『ビューティフル・デイ』は映像表現の極地です。進行するストーリーの随所に挟まれるイメージショットが、観客の感性をこれでもかと揺さぶります。

監督、脚本を務めるのは鬼才リン・ラムジー。“鬼才”という冠は良い得て妙で、彼女のスタイリッシュで前衛的な作風は誰でも真似できるものではありません。この手の映画は、一歩間違えれば意味不明になってしまいますが、そこを巧みにコントロールし、作品を作り上げる手腕に感服しました。

 

〈映像と音楽の融合〉

特筆すべきはリン・ラムジー監督のエッジの効いた表現手法。前述しましたが、映像的な表現を最大限活用しています。しかも、これらの表現にはそれぞれ目的があり、効果的に使われていることが驚異的です。

特に多用されるフラッシュバックには、主人公ジョーが過去のトラウマから逃れられない状況を表しています。物語の途中で映像が唐突に現れるのは、強烈すぎるトラウマをジョー自身も制御できないでいることを示しています。

映像的な表現でいえば、ジョーがニーナを救い出す際の演出に引き込まれました。画面に映されるのは白黒でノイズ混じりの防犯カメラの映像です。ホラーチックな味を出していて、ジョーがさながら映画に出てくる殺人鬼(実際人殺しを生業にしてはいるが)であることを印象的に映し出します。この辺の演出の引き出しの多さにも舌を巻きました。

映像だけではなく、音楽との連携も秀でています。

担当するのは、レディオヘッドジョニー・グリーンウッドで、彼の醸し出す音楽が本作を彩る重要なピースのひとつになっています。残忍な所業を繰り返すジョーの後ろでは、似つかわしくもない優美な音楽が流れ、このギャップが興趣です。同時に、どこか子供の頃を思い出す懐旧の思いも掻き立てられ、ジョーのトラウマを語る上で重要な役割を果たします。

本作は所謂アート系作品に分類され、分かりづらい部分も多々あります。以前レビューした『雨の日は会えない、晴れた日はきみを想う』と同じ系統です。

movielocallove.hatenablog.com 『雨の日は~』がある程度言語的に隠喩を匂わせていたのに対し、本作は極限まで台詞を排除し、解釈の大部分を映像と音楽に委ねているのが最大の特徴と言えます。

 

〈肉体性の放つ実在感〉

主演のホアキン・フェニックスの肉体が印象に残った人も多かったと思います。体躯について良いのが作り込み過ぎていない所で、膨れ上がる筋肉の上に脂肪を纏わせ、肉欲的な魅力を持ちます。また体の至る所にある傷痕は、戦争によるものだけではなく、子供の頃の虐待によってつけられたことも暗示しています。

容赦なく見せられる暴力に伴って、ドロッとした返り血が飛び散るグロテスクな描写も徹底されています。

もう一人の主要人物ニーナが血塗られた手で直接食べ物を掴み、口に運ぶシーンではエグさだけではく耽美な儚さも演出されています。このシーンは、殺人によってニーナのイノセンスが喪失したことを意味します。ニーナは穢れてしまった自分への戒めとして、卑劣な男の血を体に取り込むことで同一化を図ろうと考えたのです。

血肉の描写にこれだけ力を入れているのは、ジョーとニーナの感じている精神的な痛みを視覚として観客にダイレクトに伝える目的からです。

 

〈トラウマに追われて〉

本作はアクション映画の体裁である反面で、実際の中身はヒューマン映画です。これはジョーとニーナのトラウマを巡る物語。

ジョーというキャラクターは、母親との強い依存的な関係にあります。共に暮らしている描写や一緒に歌を歌う姿、他にも劇中で母親がテレビで鑑賞しているヒッチコックの『サイコ』という映画からも読み取れます。『サイコ』では、母親への執着心から異常な行動にでてしまう男の話であり、本作の二人の関係を暗示します。

そして、この異様な執着心の根源は、幾度となくフラッシュバックによって見せつけられる、幼少期の父親からの虐待にあります。「猫背になるな、背筋を伸ばせ」というのは、過去に父親から強要されていたときの言葉。また、母親が机の下に隠れているシーンが挟まれていることも家庭内暴力のあった証拠です。

ジョーの人生において、虐待の記憶こそ絶対的に逃れられないトラウマです。どれほど強烈かを計るためには、フラッシュバックの比重が指標として機能しています。

ジョーは設定上戦争を経験しており、その当時のフラッシュバックも何度か出てきます。本来ならば人の生死が絡む戦争体験が最も心に傷を残すはず。しかしフラッシュバックの比重として、戦争の時の記憶より、虐待の時の記憶の方が多く配分されています。つまり、幼少期の虐待の方が、戦争のという非人間的で過酷な経験よりも人の心を深い傷を残すのだと。それだけ子供の頃のトラウマは、人生を狂わせるものだというメッセージが読み取れます。

ニーナについても親から見捨てられ、性的虐待を受けるに至りました。あるワンシーンで、ニーナがベットにいて、父親のアルバート上院議員と黒幕であるウィリアム州知事が不遜な表情で眺めています。ここから、父親に売られてニーナがウィリアム知事の元にいったことが読み取れます。

ちなみに、アルバート上院議員がニーナの捜索の依頼を申し出たのは、娘への懺悔の気持ちが残っていたからだと考えられます。

ジョーがウィリアムの遺体を発見した時「俺は弱い。守れなかった」と嘆くのは、自分と同じ境遇に置かれたニーナを救えなかったから。ひいては、ニーナを救うことで子供の頃の自分も救いたかったのでしょう。

 

本作で印象的なのは、たびたび挿入される「ジョーがビニール袋を頭から被る」シーンと「ニーナが数をカウントダウンする」シーンです。これらは、二人が耐え難いトラウマに直面したときの対抗手段になっています。

ビニール袋を被るという行為には、外部の過酷極まる世界から物理的に断絶することで身を守る意味が含まれています。同じ理由から、母親の死後ビニール袋に遺体を包んで湖に沈めます。ここでもビニール袋で包むのは、母親が辛い現世から解放され安らかに眠るようにとの思いがあるからです。

ニーナのカウントダウンする行為には、「早くこの辛い現実が終わってほしい」という願望が込められています。

二人はどこまで行っても幼少期のトラウマから一生逃れられないのです。

 

〈原題、邦題の持つ意味〉

本作では、これでもかと辛すぎる現実を突き付けられますが、二人の行く末はどうなったのでしょう?その答えはタイトルに隠されていました。

全ての争いが終わり、カフェで朝食をとる二人。ジョーが語り掛けます。「行こう」それに対してニーナが「どこへ行くの?」答えるジョー「俺にもわからない」。

二人は過去のトラウマに心を縛られており、それはどこに逃げても付きまといます。

原題の『YOU WERE NEVER REALLY HERE(あなたは本当はここにはいない)』には、今生きている現実ではなく、子供の頃の虐待されていた記憶の中を生きている。という、悲しい意味が込められています。

ラストシーンの妄想でジョーが頭を打ちぬいたのは、死ぬことでしかトラウマから解放される手段がなかったから。それでも自殺を実行に移さなかったのは、ニーナが傍にいたからです。

邦題の『ビューティフル・デイ』は、ニーナの「今日はいい天気ね」という台詞からです。残酷で絶望するしかない世界の中で、僅かばかりでも癒される日がある。そして、そう言ってくれる大切な人が隣にいることが最大の救いになるという意味です。

本作は、心の傷を抱えた者の姿をリアルに描き切っています。そして、この物語を先端的でアーティスティックな表現で語り掛けてくるのは、人の心理の奥底にある秘め事を理解させるよう、観客の感覚を促す目的があるからです。そういった意味でも見応えのある傑作だったと思います。

 

◆余談

この作品は映像的な表現が際立っていますが、原作は小説です。原作未読なので、どうやってこの話を文章で表現したのか気になります。

ちなみに、今回のレビューで映像的な表現の部分を高く評価しましたが、文章のみで表現する小説も大好物。活字を読んでいて引き込まれるときって快感で、文字が頭の中に流れこむようで癖になります。

『笑う故郷』レビュー ~芸術の不確かさ 皮肉るという行為を通じて~

◆基本情報                         

・原題『EL CIUDADANO ILUSTRETHE DISTINGUISHED CITIZEN

・2017年9月 日本公開

・監督 ガストン・ドゥブラット、 マリアノ・コーン  脚本 アンドレス・ドゥブラット 

・出演 オスカル・マルティネス、 ダディ・ブリエバ、 アンドレア・フリヘリオ、 

 

◆あらすじ

小説家のダニエル・マントバーニ(オスカル・マルティネス)は、文学における功績が認められノーベル文学賞を授かる。当然、取材や講演の依頼が引っ切り無しに舞い込むが、厭世的な性格から、ことごとく断っていた。数ある依頼の中に、故郷であるアルゼンチンの田舎町サラスから名誉市民の称号を与えたいとの申し出を見つける。

数十年以上離れていた故郷へ帰ることになったダニエルだが、そこで小さな騒動に巻き込まれていく。

 

◆レビュー

悲劇と喜劇の対比は、割り合いよく語られるテーマではないでしょうか。ブラックジョークなんか最たる例で、日本人の感性では不謹慎すぎて笑えないことがしばしばでも、外国人の視点では機知に富んで見えるのでしょう。

そんなアンビバレントな二つの感情を的確に捉え、不条理の地平の先を覗かせてるのが、今回レビューする『笑う故郷』です。

アルゼンチンとスペインの合作。南米の独特の感性に彩られた興味深い作品でした。

 

〈田舎独特の粘っこさ〉

劇中の大半を占める、泥臭くて愚鈍な田舎の情景描写がなんとも妙趣な部分。閉鎖的な鬱積が漂う、燻った雰囲気を視覚的に写し出しています。

例えば、ダニエルがサラス到着した直後からも見て取れます。栄誉あるノーベル賞作家の出迎えに現れた男の不細工なビジュアル、洗練さのかけらもない立ち振る舞い。細かい美術について言えば、乗車した車の窪んだヘッドライトにも配慮がいき届いています。

数分前まで画面に写し出されていた、壮麗でエレガントなダニエルの豪邸との較差がくっきりと現れています。

ここで描かれる田舎の人間の負の感情は、限られた土地に縛られて内へ内へと溜め込まれたもの。

地元の盟主であるロメロのプライドや、アントニオのジェラシーから強烈な印象を植え付けられました。彼らがダニエルに固執するのは、悠々と外の世界で生きている者への羨望が含まれているためです。

終盤近くにある抽象表現で、街の住人たちが銃を携えているシーンが挿入されていますが、あのシーンは彼らの抱える鬱積が、攻撃性にまで昇華しうることの表れだと感じました。

ダニエルがサラスの町を出た理由もここに見出すことが出来ます。にもかかわらず、小説の題材にサラスを選び続けるのは、心のどこかで自身のアイデンティティがこの土地にしかないと理解しているからです。

権威と栄光を手に入れ、どんなに芸術家らしく振る舞っても、ダニエルのコンプレックスは解けないままであることがわかります。

 

〈フラットな演出〉

本作の演出は、非常に平易でシンプルになっています。

なにか起きそうなのに起きない緊張感は、スリラーのようにも見えますし、同時にその張り詰めた空気を達観してみると、コメディのようでもある。重要なのは、どちらの色付けもしていないことです。そうすることで、ねじれの位置にあるはずの二つのジャンルが、同時に存在することができます。

例えば、アントニオにとって、妻の元恋人にあたるダニエルへの敵愾心。中年男の嫉妬を必死に隠しながら鞘当てをしているところは、一周回って可愛らしくも映ります。

ノーベル賞作家の威光にあやかり、地位を固めようと画策する町長の小狡さ。そこから卑小な人格が透けて見える痛々しさ。

フリアが友人の娘であることが判明した瞬間にも、ある種のおかしみが存在しています。

「修羅場に発展するのではないか?」「なんてことしてしまったんだ」というダニエルの真に迫った焦りが、俯瞰で観ている我々の心をくすぐってきます。

描写のバランス感覚は非常に巧みです。悲劇と喜劇の境目を見定め、ギリギリのラインを狙って演出しているのです。

本作の演出は、現実の写し鏡と形容できます。現実の無秩序な世界の中で、起こった事象をどう解釈するのかは、主観をもった当人その人であるからです。

このように観ると、本作における映像の色調も大きな意味をもつのではないかと考えられます。

鑑賞していて気が付いたのが、画面の彩度を調整するカラーグレーディングが、ほとんどされていません。どの場面でも常に一定の色味のままで、映画らしい情感に訴える工夫はなされない。むしろドキュメンタリー映像に近しいのもがあります。

つまり、このような色調にすることで事態をフラットに捉え、喜劇と悲劇の二つの要素を偏りなく配分する狙いが隠されているのではないでしょうか?

演出プランと映像技術を高度に絡めた表現であると言えます。そして、語られるテーマ自体とも深く関係してきます。

 

〈解釈を決めるのは誰か〉

この作品のテーマは、ラストのオチのでダニエルの口から語られる。

「重要なのは“解釈”である」と。

小説のような芸術に関しては、何が優れていて何が劣っているかの判断が難しいものです。評価を決定づけるのは、書き手の技量と同時に、受け取り手の視点と解釈に因るところが大きい。つまり本作は、芸術の孕む不確かを提起しているのだと言えます。

劇中、絵画コンクールの賞を選定するシーン。ダニエルが屁理屈ともとれる理由で平凡極まる画を評価しました。

他にも、冒頭のノーベル賞の授賞式において、ダニエルの発言の意味を測りかねた観衆の戸惑い。それでも、ノーベル賞作家の発言なのだからと、少しの間をおいてスタンディングオベーションする滑稽さ。

これらのシーンから読み取れるのは、権威に盲従する大衆の愚かさです。そして彼ら気が付いていません。自分たちが評価するからこそ、ダニエルの価値が確固たるものになっている事実に。

ブラックコメディとは、本来ならば悲劇であるものを、皮肉ることで喜劇に転化することです。つまり、どんな出来事でも解釈次第でどうにでもなるという考えが元になっています。

この映画が素晴らしいのは、芸術の持つ不確かを、同じ性質のあるブラックコメディというジャンルで描くことで、克明に表している点です。

本作を芸術映画と捉えるのか、はたまたコメディ映画と捉えるのかは、鑑賞者である私たちの“解釈”に委ねられているのです。

 

◆余談

映画のレビューなんかやっていると、穿った解釈をしがちになります。いろいろこねくり回してるうちに、自分でも明後日の方向に考えが及ぶこともあります。

ちなみにこのレビューで、画面のカラーグレーディングがドキュメンタリータッチであると書きましたが、このへんも理屈として怪しいかなとも思います。

というのも、私の不勉強でスペイン・アルゼンチンの映画をほとんど見たことがないからです。もしかしたら、南米映画ではカラーグレーディングをしないのがスタンダードなのかも。

もしも、『笑う故郷』の制作陣がこの記事を読んだら「そんな意味ないよ。勝手に深読みしやがって」と鼻で笑われるかもしれません。

けど、結局どうやって解釈するのかを決めるのは、受け手側ですから。問題ないですかね。

近年のピクサー映画の続編傾向と結末の“苦み”について

私のオールタイムベスト10のひとつにピクサー映画の『ウォーリー(2008)』があります。この作品は、環境問題提起のSF作品であると同時に、最上級の恋愛映画でもあります。

恋愛映画というジャンル自体、実写で掃いて捨てるほど多くの作品が毎年作られており、競争の激しい一分野です。その中にあって、CGアニメーションの世界で恋愛を描き、大いなる成功を収めることが出来たのは、ピクサーの向上し続ける技術力と何よりプロットの確かさをなくしては語れません。

『ウォーリー』に限らずですが、全盛期のピクサーは本当に凄かった。

トイストーリー』『モンスターズ・インク』『ファインディング・ニモ』『カーズ』『カールじいさんの空飛ぶ家』など。

なにを作っても絶対的に品質保証がされており、絢爛とも言えるこれらの傑作の数々は、今後数十年間の映画史に確実に名を刻むことは間違いありません。

しかしながら、何事も栄耀栄華を極めても、いつかは下り坂に差し掛かることは避けられないもの。ピクサーに関しても例外ではなく、大傑作『トイストーリー3』を最後に昏迷期に入ってしまいます。いや、「昏迷」なんて言葉を使うと駄作を量産するようになった、かに思うかもしれませんが、そうではない。隆盛を誇った上記の作品群に比べれば、数段見劣りすると言うだけの話であって、ピクサー外部の映画を比較対象とするならば、よっぽど優れています。

その断りを入れたうえで語ろうと思いますが、ピクサー斜陽化の一因に続編作の連発傾向が挙げられます。二匹目のドジョウ戦略ともいえるこの傾向は、本来アニメーション作品を作る上での商業的メリットを加味すれば当然の発想と言えます。

前述のように、私はピクサーの最大の魅力はプロット面にあると思ってます。しかし、それは所謂“映画好き”の視点での評価であり、本来アニメの観客として想定されている子供たちからすれば、キャラクターの魅力が最も関心の強いポイントであることは相違ありません。

続編傾向の利点として、過去の傑作で躍動していた人気キャラクターの復活させ、キャラクター関連グッツで収益を上げようという勘定が入っているのでしょう。これらの事情は企業として当然至極の戦略で、非難する類いのことではありませんが、反面で元になっている作品を延命させざるをえないという弊害も生じてきます。

それでは、ピクサー作品のおける具体的な事例を元に話を進めようと思います。今まで公開された中で、続編として作られたものを列挙すると以下の通り。

トイ・ストーリー2』『トイ・ストーリー3』『カーズ2』『モンスターズ・ユニバーシティ』『ファインディング・ドリー』『カーズ/クロスロード

この中で『トイ・ストーリー3』については、別格としておきたい。というのは、監督をリー・アンクリッチ氏もインタビューで明言していることからもわかるように、『トイ・ストーリー3』は三部作の最終章のジンクスを意識的に打ち破ろうとした試みがあったことが見て取れるからです。結果ブランドでも一、二を争う出来栄えになっているのだから、異論もないかと思います。

では、他の続編に関してはどうかというと、やや腑に落ちない部分があります。まるで喉に突っかかった小骨のような違和感が残るのです。

例えば、『カーズ2』はストーリーの練り込み不足が見逃せない。ピクサーにおける扇の要が最もぐらついた作品で、お世辞にも褒められたものではない。それに取って代わるように組み込まれているのは、行き過ぎた遊び心。日本文化を舞台に、車のキャラクターたちが持つギミックを主眼においており、前作『カーズ』における郷愁溢れる世界観を壊しかねないほどでした。

ファインディング・ドリー』も、タコのハンクというキャラクターが体現されるやりすぎ感が作品のバランスを崩しかけていました。『トイ・ストーリー2』『モンスターズ・ユニバーシティ』は娯楽作としてみれば、、楽しめますが、どうしても続編に付きまとう既視感が視界にちらつく。

ヒットした映画の続編に駄作が多いのはよくあることで、綺麗に完結した物語の末尾に、余計な装飾を加えられ、二番煎じだと辟易することは避け難い現象です。

続編を作るということは、過去の自分を乗り越える力が要求されます。全霊をかけて制作された物の更に上をいくか、別の方向に舵を切って差別化しなければならない。

全体のクオリティで見ると上記の続編たちが、一作目を超えたとは言えません。それでも私が、ピクサーの続編を支持しようと思うのは、結末にある“苦み”がしっかりと継承され続けているからです。

ピクサー作品に通底しているのは、極めて教訓的なメッセージです。

例えば『トイ・ストーリー』では、バズが抱いていたスペースレンジャーであるとの思い込みは、現実に打ち砕かれる。『カールじいさんの空飛ぶ家』では、最愛の妻との夢をかなえるために飛び立ち、妻との思い出を取り戻すという幻想を抱いていたが、結局は叶わない。

要は、自分の置かれている変えがたい状況や現実というのを、突き付けられます。どうにもならないものは、ならないという“苦み”は、大人になると通過儀礼的に誰もが通る道です。それをアニメーション作品に込めている点を称賛したいと思う。ピクサーが子供から大人まで楽しめるに足る秘訣はここに隠されていると考察します。

子供たちはピクサー作品を見ながら育つことで、困難に打ち勝つ強さを獲得し、大人は自身の実情に照らし合わせて感情移入することができるのです。

ピクサー作品の続編では、その教訓的な結末に関しては抜かりがない。

ファインディング・ドリー』では、ドリーの抱える短期記憶障害という足かせは解決しない。『モンスターズ・ユニバーシティ』のサリーとマイクも、試験で不正を働いた廉で退学になっている。

どうにもならない現実や自らの行動の責任に直面しながらも、それを踏まえたうえで、どのように生きていけば良いのかを考えさせられるストーリーになっています。

このようなリアリズムの道程を歩み続けた結果の、純然たる成功例が『カーズ/クロスロード』です。まるで作中で語られる継承の物語とリンクするかの如く、ピクサーが受け継いできた“苦み”を最大限見せつけ、それでも明るい未来を提示してきます。

そして去年頃から、ピクサーの第二の勃興が始まってるようにも思えます。

 

最後に触れておきたいのは、ピクサーが新たな続編作を公開予定であること。

今年(2018年)の6月に『Mrインクレディブル』の続編『インクレディブル・ファミリー』が公開されます。2019年6月には『トイ・ストーリー4』も公開予定でもある。

特に気になったのは、『トイ・ストーリー4』に関して。あれだけ美しい幕引きに蛇足を付け足すことになるのではと考えましたが、どうやら、ラブコメ方向のスピンオフ的な作品のようで安心しました。

これからも、ピクサーの心構えを忘れずに、制作に鋭意してほしいと思います。

『キングアーサー』レビュー ~作品の歪な面白さと興行成績、二つを天秤にかける~

◆基本情報                         

・原題『King Arthur:Legend of Sword』

・2017年6月 日本公開

・監督 ガイ・リッチー 脚本 ジョビー・ハロルド、 ガイ・リッチー、 ライオネル・ウィグラム

・出演 チャーリー・ハナム、 ジュード・ロウ、 ジャイモン・フンスー、 アストリッド・ベルジュ=フリス

 

◆あらすじ

ヴォ―ティンガ(ジュード・ロー)の策略により、父を殺され、王家より追い出されたアーサー(チャーリー・ハナム)は、スラム街で貧困と暴力の中を生き抜いていた。そんな折、聖剣エクスカリバーにまつわる運命が、アーサーを王位をめぐる争いへと誘うことになる。

 

◆レビュー

人間には適材適所がある。学校では人をまとめ上げる能力に長けた人間が生徒会長をしたり、社会では探求心の強い人間が研究職に就くことなどが良い例でしょう。

人間は自分の持つ能力を最大限発揮し、役立てたいと心のどこかで願っています。そのほうが本人だけではなく、周囲の人間にとってもプラスに作用することは明白です。

ではもし、自身の適正から少しズレた領域の仕事を任された時、どういった結果がもたらされるのか?今回レビューする『キングアーサー』は、才能と環境という視点で観てみると、非常に興味深い作品だと言えます。

 

〈監督の過去作を振り返って〉

ガイ・リッチー監督の特色と言えば、独特な演出とスピーディな展開。具体的には、時系列を前後させることで作品に外連味と緊張感を保ち続ける手法です。この演出を入れることで、現代的なスタイリッシュさが全面に押し出されます。

この特徴は、監督の過去作にほぼもれなく反映されています。

寄木細工のような巧妙な脚本のクライム映画『スナッチ(2000)』。世界で最も有名な探偵を、アクションのフィールドで活躍させた『シャーロック・ホームズ(2009)』『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム(2011)』。スパイ映画の切れ味を極限まで高めた痛快作『コードネームU.N.C.L.E(2015)』など。

ガイ・リッチー監督の才能は、特アクション映画と互換性が強いと言えます。時系列を入れ替える編集を入れることで、現代映画の潮流、スピード感重視の傾向の最先端を行っています。その意味で直近の『シャーロック・ホームズ』『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』『コードネームU.N.C.L.E』は、ガイリッチー節が如何なく発揮された好例と言えるでしょう。

 

ガイ・リッチー×ファンタジー〉

本作の原作は言わずと知れたアーサー王伝説で、数々の映画、小説、漫画作品のモチーフとなっています。この原作をオーソドックスに映画化するのであれば、莫大な予算と時間がかけることは必要不可欠。事実『キングアーサー』は全6部作の制作予定になっていました。

ファンタジー映画の骨子は、いかにして世界観を構築できるかにかかっており、時代考証、衣装、幻想的ムード、それらが組みあがって見応えのある重厚な作品になります。

先行作品を挙げれば『ロード・オブ・ザ・リング』(3部作)『ナルニア国物語』(3部作)『ハリーポッター』(7部作)などです。

しかし、ファンタジーが本来持っているはずの重厚さと、ガイリッチー監督の持ち味である現代的で軽妙な演出は、本来相容れない水と油の関係です。監督と題材の互換性の低さこそが、本作の最大のポイントだと断定します。

例えば、アーサーが剣を操るためにダークランドへと旅に出る修行シーン。驚くべきことにこのセクション丸々、文字通り早送りで編集されているのです。従来のファンタジー映画ではその修行シーンに時間をかけており、定石に照らし合わせればあり得ない選択と言えます。しかし同時に、この無駄を省いた物語展開は、いかにもガイリッチー監督らしい持ち味でもあります。

同じく早送り編集で言えば、アーサーが幼少期から大人に育つまでの過程も省略されています。子供の頃のエピソードは退屈になるため、必要ないと判断したのでしょう。

他にも、イングランドを代表する12人の領主との対談しにいくシーン。次の展開を洒脱な会話を織り交ぜながら予想していくあたりに、ガイリッチー節がさく裂しています。

アクションシーンについても、歴史ものにある剣劇の系譜からは外れています。エクスカリバーで大人数をなぎ倒したり、ヴォーティガンとの決闘においても現代的なスピード感のあるものに仕上がっています。

このように、ファンタジー映画の本流からはかけ離れた、色物であることは間違いないでしょう。この手の映画のファンからすれば、物足りないどころか、怒りすら買いかねないのも事実です。

しかし、何か新しいものを創る時には、常にリスクがつきまとうもの。無難に今まで通りのファンタジー映画を作りたければ、そもそもガイリッチー監督にオファーすること自体が間違いで、彼が起用された時点で、ある程度は結果が見えています。そこには、従来のファンタジー映画の常識を覆してやろうという意気込みが隠れているのだと思いました。

本来交わるはずのない要素が結合し、歪であるがゆえに今まで味わったことのない映像体験ができます。

 

〈記憶の回想〉

ガイリッチー監督の特性が純粋にプラスに働いている部分も確実にあります。

アーサーは幼少期の記憶が曖昧で、父の黒い魔物の正体、母の死がはっきりとは描写されないようになっています。そこから、エクスカリバーに触ることで徐々に過去の悪夢を思い出すようになります。 

一連の構成は、アーサーがトラウマを乗り越え、自身の運命と対峙するまでの心理をとても効果的に演出することに成功しています

フラッシュバックを多用する方法は、前述したスピード感を出しエンタメ要素を強化する演出とはベクトルが違い、人物の内面を掘り下げる意図をもって組み込まれています。その意図と作品に厚みを持たせる必要性が、正常に手を結んだ結果だと思います。

 

〈王の器とは〉

原作が有名な古典のため、話の骨格を取り出してみると教訓的な内容が読み取れます。これは、王の器にまつわる物語です。

アーサーは娼館で育てられ、暴力と貧困にさらされた劣悪な環境の中にいました。逆境の中から自身を鍛え上げ、知恵を使ってのし上がっていく、魅力的な人物像が見て取れます。そのため仲間からは慕われて支持されています。だからこそ、自分の為に国民が立ち上がり暴動を起こした際に、見捨てることができなかった。

対して、ヴォ―ティンガは計略を巡らして、自身の兄にあたる、アーサーの父を殺害し、メイジの契約の為に妻と娘を犠牲にする残忍で狡猾な人物です。

両者を比較したとき、どちらが人を統治し、従える人物として優れているかは推して知るべし。最終場面、アーサーは因縁のあるバイキングも王として受け入れ従えました。清濁のみ込む王としての器の大きさを表した描写です。

 

〈興行成績〉

どう考えても万人受けするタイプではない本作、案の定と言うべきか、興行的には大惨事になりました。衣装や撮影、有名俳優へのギャラ、プロモーションなどに大金をかけたようですが、興収で全く回収できず大赤字。制作陣も頭を抱えていることと存じます。

映画関係者のインタビューでは、近年のガイリッチー監督作品の中で、最大の失敗作とも言われています。元々全6部作にするはずだった計画も頓挫して、続編の制作は絶望的です。

また、批評面でも厳しい状況で、レビューサイトを覗いてみるとなかなか手厳しい意見が散見されました。

世間的には、上記のような反応は当然だとは思いますが、それでも私はこの作品を批判したいとは思いません。『キングアーサー』は、邪道ながらも挑戦心に溢れた作品。何かを変えようとした結果の、大いなる失敗だと思います。これからも“コケる”ことを恐れない前傾姿勢を忘れないでほしい。その先にしか作家的な発展は見込まれないと思うからです。


◆余談 

監督と作品のジャンルって繊細な関係だと思います。特に映画は企画から実際の撮影までチームで進めていく性質上、監督個人の意見だけが通るものではありません。自分のやりたいようにやれない部分も多々あるだろうに、その辺の気苦労も含めて監督業の一環でしょうね。

ガイリッチー監督の今後のキャリアがどうなるのか、色んな意味で楽しみです。アクション路線で安全に進んでも構いませんが、振り切って全く適正のないジャンルにも挑戦してもらいたい。恋愛映画、ヒューマン映画をガイリッチーが作ったらどうなるのか?恋愛映画で、男女の距離が縮んでいく過程がよくありますが、あそこに早送り演出を適用したら凄いことになると思います。半分興味本位ですが、そんな作品も観てみたい。恐らく企画段階で没になるでしょうが。

『夜明告げるルーのうた』レビュー ~和解の瞬間に訪れる感涙 アニメーションだからできたこと~

◆基本情報                         

・2017年5月 公開

・監督 湯浅政明  脚本 湯浅政明、 吉田玲子

・出演(声優) 谷花音、 下田翔太、 寿美菜子、 斉藤壮馬

 

◆あらすじ

東京から港町の日無町に移り住んできた足元カイ(下田翔太)は、内向的な性格から生活に馴染めないでいた。唯一の趣味は音楽の打ち込みで、その動画を投稿し公開することだった。偶然クラスメートの海老名遊歩(寿美菜子)と国夫(斉藤壮馬)に動画を発見され、腕前を見込まれたカイは、二人から「セイレーン」というバンドを一緒にやらないかと誘われる。渋々バンドに参加したカイだったが、練習場所である人魚島で女の子の不思議な声を聞く。

 

◆レビュー

アニメーションという媒体を介することで最大限伝わることがあると思う。

今まで、このブログでは洋画ばかり扱っており、邦画のそれもアニメ作品をピックアップするのは初めてになります。ここ最近の私の課題はハリウッド映画偏重の見直しであり、その一歩として『夜明け告げるルーのうた』は最適かと思います。というのも、本作は実写映画にはない愉しみに溢れた快作だと感じたからです。

基本的な作品解釈のスタンスは変わらないのですが、アニメーションの世界観が作品をいかに昇華させるのかの見解の提示を試みます。

本作の監督である湯浅政明氏の作品は『夜は短し歩けよ乙女』のみ鑑賞済み。こちらは一応楽しめたのですが、個人的にはそこまでツボに嵌らなかったのが正直な感想です。作画の出来による差と言うよりも、メッセージ的な意味合いで私の趣好が影響した結果です。それだけ『夜明け告げるルーのうた』から投げかけられた感動に、心揺さぶられたのだともいえます。

 

〈世界観 都会性と田舎の共存〉

今回の主題とは少し脱線しますが、作品を包み込む世界観もまた、現代性を反映させた問題提起として秀逸かと思います。

舞台となる日無町は人魚の伝説生きつく港町で、廃れゆく地方都市のステレオタイプとして描かれます。町を支えるのは漁業と傘の二本柱ですが、産業の先行きは芳しくありません。その斜陽を迎えた様子は、日無町という名称にも象徴されています。

行き詰った町の現状を打開するべく、人魚を利用したPRをして町の活性化を狙うのは、この手の映画でままよくある展開。ここで描かれるのは、人間のエゴが伝統や環境を侵食していく様です。人魚ランドなるアミューズメント施設は最たる例で、誤った共存の姿として、忌むべき場所として描かれます。

上記の例と対となるのは、物語の終盤にある人魚と人間が協力して災害を乗り越えるシーンです。人魚は人間を救い、人間は日傘で人魚を守る姿は正しい共存の模範解答なのだと言えます。

正しい共存といえば、ミサキ先輩が果たす役割も見逃せないところ。序盤で一度東京に行って、出戻りで落ちぶれたように言われていますが、本当は日無町でカフェと観光業を両立させていこうと計画しています。カフェにある都会的な雰囲気は、東京で過ごしたから獲得できたもの。そして、観光業は地方に根差しているからこそ成り立つものです。この二つを引き合わせる発想は「都会性を正しく取り入れることで田舎の発展に繋がるのではないか」という、本作スタンスを明瞭に表しています。

地方の過疎化が深刻化している昨今、こういったテーマを盛り込んだ作品は数知れずあるでしょう。その中でも本作が示した共存の有り様は、押しつけがましくないものです。気負いのないメッセージだからこそ、観た人の胸に自然と染み入る浸透力があるのだと思います。

 

〈アニメーションの躍動感〉

アニメーション独自の魅力は、実写では表現しえない“動”的な要素にあると考えます。その意味において、湯浅政明監督の作り上げた世界は飛びぬけてアニメ的と言えます。

その楽しみに溢れた魅力は枚挙にいとまがありません。

初めに触れておくべきは、ルーというキャラクターです。ルーが縦横無尽に踊り、感情豊かにリアクションを取る所作すべてが、アニメの喜びに満ち満ちています。人魚の子供だからこそ、人間世界で目にする出来事に素直に反応し、歓喜・感動・驚愕・落胆・悲嘆のすべてをダイレクトに動きで表しているのです。ルーを演じた子役の谷花音の演技も申し分なかった。

声優陣の好演も見どころの一つで、主人公カイ役の下田翔太は、思春期ならではの繊細な少年を演じきっていましたし、遊歩役の寿美菜子は、若者らしさと方言が入り交じった喋りが絶品でした。

劇中、ルーが海水を自在に操るところも、エネルギッシュな妙味が抜群に効いています。ダイナミズムある海水の動きは、アニメだからこそ実現できたものです。

他にもアニメ的なデフォルトが効いた場面として、お蔭岩と人魚伝説の説明をする際にロールプレイング形式にしていること、カイの祖父の昔話になると水彩画調の画風を取り入れていることなどが挙げられ、随所に工夫が凝らされています。

ところどころ遊び心のある演出を積極的に取り入れていますが、背景にある日無町の自然豊かな色彩は、しっかりと地に足のついたリアルな画造りが徹底されていて、世界観の構築にも抜かりありません。

ギャグシーンも面白く、椅子レースのシーンや「生き〆ですから」の件は手放しで笑いました。

このように、本作ではアニメーションの力強さは、観客を視覚的に楽しませる役割を充分に果たしています。しかしそれだけではなく、後述するメッセージ性を担保するためにも絶対に必要不可欠なものでもあるのです。

 

〈音楽を介して伝わること〉

音楽の魅力によって人の心を動かす。それを作中で実現するには、実際にかかるメロディー、楽曲自体に相応の求心力がなくては成立しません。

まずガツンとやられたのが、オープニングです。エコーがかかったような幻想的なルーの声に誘われ、始まる音楽の力で、グイグイと作品世界に引きずり込まれました。

そして何より、灯籠祭でセイレーンが演奏を初披露するシーンが最も音楽の魔力を体感するところだと断言します。カイやセイレーンのメンバーだけではなく、その場に集まった大勢の人間が、ルーの歌声に逆らえず踊り出す。文字通り、身体が勝手に動き出すわけですが、それは、劇中の登場人物だけに留まらず、映画を観ている我々観客にまで当て嵌ります。つまり、鑑賞者も灯籠祭の場にいるように感じ、音楽の魅力を追体験をすることができるのだと言えます。加えて、あのシーンはアニメ的なデフォルメが効いた表現も小気味よく、視覚的な面白さも兼ね備えています。まさに、アニメと音楽の融合が達成されている。

あの瞬間、あの場にいる誰もが同じ気持ちを共有している喜び。その瞬間的かつ奇跡的な喜びを実現できたのは、他でもなく音楽の存在があるからです。灯籠祭のシーン一点に、湯浅政明監督がやりたかったことが集約されています。

音楽について、劇中流れる斉藤和義の『歌うたいのバラッド』がメインソングとなっています。この曲が選ばれたのは、映画を通じて伝えたいメッセージ「歌を通じて気持ちを伝える」を体現しているからです。歌詞にあるように、ものすごくストレートに、気持ちを伝えることの大切さを説いた名曲となっています。

 

〈わだかまりが解ける瞬間〉

この作品の最大のテーマは「他者と私は分かり合えるのか?」です。とても普遍的な命題で、それゆえに答えが難しいはず。しかし、本作では非常に説得力をもった回答を提示しています。

人魚とは人間にとって、自分とは違う異質な存在で、つまりは他者そのものとして扱われます。理解できない相手だからこそ恐れ、偏見が生まれるのです。

人魚に噛まれると人魚になってしまう。町の中で噂が流れていく描写は、悪意がなく偏見が蔓延していく様を表しています。

カイの祖父が人魚を敵視していたのは子供の頃に、母親が人魚に噛まれて亡くなったと思っていたからです。しかし実際は、人魚が溺れているところを助けたことが真相でした。

タコ婆が人魚を憎み続けていたのは、恋人を人魚に殺されたと思い込んでいたからが、後に人魚となった恋人に再開できました。

誤解と偏見から相手と理解し合えないのはもどかしく、心苦しくもの。その誤解を解く方法は「ゆっくり、一言一言区切って」伝えることです。自分とは違う者と理解し合うための方法は、当たり前なのですが、自分の気持ちを伝えるほかないのだと訴えかけてきます。

分かり合えた瞬間の感涙を象徴しているのが、カイと父親との和解のシーン。思いの丈を正面から伝える時、背筋がゾクゾクするような感動を体験できました。

本作は、「あなたと私」の溝が埋まり、わだかまりが解ける瞬間の喜びを描いた作品。そして、この結論が甘っちょろくなく、説得力のあるメッセージになっているのは、アニメーションの世界だからに他なりません。ともすれば、綺麗ごとになりかねない回答も、アニメというフィルター通して現実の無常感を色抜きすることで、我々鑑賞者の胸に淀みなく届くのです。

 

◆余談

前回レビューした『おとなの事情』にて、人がうまく付き合っていくには、嘘が必要なのだと書き、ある意味で今回の『夜明け告げるルーのうた』の結論とは真逆の意見になりました。私はどちらの結論も間違っているわけではなく、両方正しいのだと思います。矛盾しているのではなく、そこにこそ、実写とアニメで伝えられるメッセージ性の違いが顕著に出てきます。

と、あらぬ誤解が生まれないように、一応フォローを入れて終わります。

『おとなの事情』レビュー ~虚構の中でしか生きられないおとなたち~

◆基本情報                         

・原題『PERFETTI SCONOSCIUTI』

・2017年3月 日本公開

・監督 パオロ・ジェノヴェーゼ  脚本 パオロ・ジェノヴェーゼ、 フィリッポ・ボローニャ、 パオロ・コステッラ、 パオラ・マンミーニ、 ローランド・ラヴェッロ

・出演 ジュゼッペ・バッティストン、 アンナ・フォリエッタ、 カシア・スムートニアック、 マルコ・ジャリーニ、 エドアルド・レオ、 ヴァレリオ・マスタンドレア、 アルバ・ロルヴァケル

 

◆あらすじ

昔からの付き合いで仲の良い7人(3組の夫婦と独身男性)が、食事会を開き親睦を深めていた。冗談の延長で、自分たちの携帯を机に置き、着信があったらスピーカーにしてみんなに公開するというゲームを始める。次第にそれぞれの抱える嘘が露見し、事態は思わぬ方向へと転がりだすこととなる。

 

◆レビュー

ダヴィッド・ディ・ドナッテロ賞をご存じだろうか?少なくとも私は全く知らなかった。

このいかにも舌を噛みそうな名のこの映画賞は、イタリアのアカデミー賞とも言われています。この賞を取った本作はイタリア本国では大ヒットを飛ばしているらしいです。

日本国内では、アメリカのアカデミー賞に関するニュースは一般に普及しており、今年のアカデミー賞候補である、キャスリン・ビグロー監督の社会派作品『デトロイト』なんかが良い例です。今朝方ニュース番組を観ていると、ビグロー監督のインタビューを交えた宣伝が流れていたのが印象に残っています。

ところが、イタリア映画となると敬遠するのが日本人の悪しき先入観なのか、話題にならないのが実情です。かく言う私も、イタリア映画をあまり鑑賞しておらず、省みなければと思いました。その考えに至れたのも、今回レビューする『おとなの事情』の完成度の高さ故であり、この作品に出会えたことに感謝しなければいけません。

なお、このブログでイタリア映画を扱うのは二回目で、以前『鑑定士と顔のない依頼人』をレビューしました。

 

movielocallove.hatenablog.com

こちらも見応えある作品なので、良ければ鑑賞してみてください。

 

〈群像会話劇としての到達点〉

物語前半で魅せられる軽妙洒脱な会話劇が見所の一つ。

この作品で繰り広げられるコメディは、所謂“わかりやすい笑い”と一線を画しており、“ユーモア”という形容が何よりも当てはまる、斜に構えた笑いに仕上がっています。言い換えれば、変化球としての笑い、シニカルで物事を達観した捉え方が伺えます。

例を挙げるなら、恋の定義についての議論。恋をしているかどうかは、どうやって見極めればよいのか?という命題に対して、

「一日30分話すなら恋に落ちてる」「一日60分なら?」「それは恋の病ね」「0分なら結婚だ」

という皮肉交じり会話がリズミカルに連なります。

他にも、男と女の差異をパソコンに例えたところも旨いものだと感心しました。

「男はWindows。安いけどウィルスに弱くて、平行作業ができない」「女はMac。頭が良くてエレガント。金がかかる割に互換性が低い」

ワンシュチュエーションで、気心の知れた仲間同士から生み出されるやり取りの数々は、可笑しみの隣に人間真理を突く鋭さを備えています。この鋭さこそ、後半におけるシリアスな展開への予兆とも取れます。

脚本に名を連ねるのは、ざっと調べただけでも8人以上です。これだけの小粋なアイデアは、何人もの映画のプロが意見を持ち合ったからこそ成立したのだと思います。同時に、集団として足並みを揃えて一つにまとめ上げる労力もまた、並大抵ではなかっただろうと想像します。

 

〈伏線、展開の巧みさ〉

伏線を張り巡らせ、緻密に設計されているのも本作を傑作足らしめている要因です。寸分の隙がなく、96分の上映時間一杯を使ってとてつもない情報量が収まっています。しかも、作品を窮屈にさせず、エンタメ性も確保したうえで成立させており驚嘆すらします。

エヴァロッコの子供の問題。カルロッタとレレの姑問題、パンツの一件、事故の話題。ビアンカとコジモのワインに関しての会話。それぞれが追々の展開に無駄なく生きてきます。これらの伏線は前述した軽妙な会話の中に無理なく組み込まれており、話題が滔々と移り変わるその展開力は見事の一言。とりわけ感心したのが、ぺッぺとレレのスマホ交換のアイデアです。この件で、こんなにも話を広げるとは、初見時は予想できませんでした。

また触れておきたいのは、二段落ちの構成力です。中盤でそれぞれの夫婦の抱える問題に一回目の着地を見せ、観客を一安心させてます。この「ちょっと良い話」で終わってしまったら、その辺の凡百な作品に成り下がっていたことでしょうが、そこからもう一波乱起こすひねりの効いた脚本が素晴らしい。そして明かされる二回目の落ちこそ、作品のテーマである虚構の中で生きる大人の姿を映しています。

本作は複雑な構成の上に成り立っており、後になって、前半の登場人物の発言一つ一つの真意を知ることとなります。その意味で二回目、三回目に観ると、「あの時、あの人はこういう心情だったのか」と本当の意味で感情移入できて味わい深く感じます。

何回も鑑賞できるタイプの作品という意味でも、“おとな”な出来だと言えます。

強いて苦言を呈するならば、音楽の使い方について。真相が明かされる度に同じBGMが流れて単調だったかなとは思います

 

〈嘘をつくことの意義〉

全ての嘘が明かされた後の醜い本音の罵り合いは、目を覆いたくなるほどの惨状で、前半の取り繕っていた頃のコメディの裏面と言えます。ここから浮かび上がるテーマは、大人同士が共に生きていく為の嘘の必然性なのだと断定します。

人間は相手に妥協し、嘘をつかなければ生きていけない生き物です。本音を語り、その度に折衝していたら、友人とも夫婦とも関係を続けることができなくなってしまう。彼らの嘘は必要に迫られた、切実な理由か発したものです。

これらのテーマを見事に表しているのがラストで、映画史に残る名シーンといえます。全てのトラブル終わりみんなが外に出ると、今までの出来事すべてがなかったかの様に元の関係に戻ります。ここの切り替えの早さこそ、本作の最重要ポイント。

初めからみんなわかっていたのでしょう。自分も相手も、誰しもが嘘を抱え、その虚構の中でしか生きていけないことを。相手の嘘を見逃すということは、自分の嘘を見逃してほしいという要求とイコールです。その打算と駆け引きによって平穏が保たれるなら、虚構の世界でも構わないじゃないか、とのメッセージが読み取れます。

最後に、本作のひねりの効いた脚本に習って、もう少し穿った解釈をしてみようと思います。

劇中のシリアルキラーの例えにあるように、人は無駄とわかっていても誰かに本当の事をわかって欲しいもので、そのために臨んで馬鹿げたゲームに参加することもあります。本作の構成上、二段目の卑劣な嘘が強烈で忘れられがちですが、一段目の優しい嘘もまた劇中で確実に存在しています。また、エヴァロッコの娘ソフィアの問題に関して、本音を語り合った末に、本当に理解し合えた様子も描かれています。

これらから垣間見える嘘の善良さを、決して否定しきっていない点を踏まえた上で物語を見直すと、本作の捉え方が僅かばかりでも変わるのかもしれません。

 

◆余談

本作と比較する作品があるとすれば、2012年のロマン・ポランスキー監督作『おとなのけんか』です。群像会話劇のスタイルや、テーマも含めて似通ったところがあります。邦題も上記の作品に寄せてつけられていて、意識したことは容易にわかります。

なお、本作のタイトルの英訳が『PERFECT STRENGERS』で、2007年公開のハル・ベリー主演作にほぼ同名のものが存在しますが無関係です。こちらは見所がないわけではないのですが、個人的におすすめしません。共通項を見つけるならば、保身から嘘をつく人間の愚かさといったところぐらい。

 

私は映画を観る際に、先入観を持たないように心掛けており、本来なら食わず嫌いなんて以ての外です。そこで、これからはイタリア映画への挑戦も課題にしようと思います。手始めに、ダヴィッド・ディ・ドナッテロ賞の他作品を鑑賞してみます。

というか、イタリア映画に限らずですけどね。邦画も含め、もっと他国の作品に手を伸ばしていこうと思います。