『スイート17モンスター』レビュー ~“痛さ”の先にある自立の物語~

 ◆基本情報                         

・原題『THE EDGE OF SEVENTEEN

・2017年4月 日本公開

・監督 ケリー・フレモン・クレイグ 脚本 ケリー・フレモン・クレイグ

・出演 ヘンリー・スタインフェルド、 ヘンリー・ルー・リチャードソン、 ブレイク・ジェナー、 キーラ・セジウィック、 ヘイゼン・セット―

 

◆あらすじ

17歳のネイディーン(ヘンリー・スタインフェルド)は、幼い頃から出来の良い兄ダリアン(ブレイク・ジェナー)と比べられ、その劣等感から、エキセントリックな行動をとるようになる。そんな彼女にとって、唯一の友達であるクリスタ(ヘンリー・ルー・リチャードソン)と一緒に過ごすことが救いだった。しかし、兄のダリアンと親友のクリスタが付き合うようになり、ネイディーンの居場所は本格的になくなってしまう。

 

◆レビュー

思春期の揺れ動く精神状態からくる苦い思い出は、誰しも思い当たる節があるはず。今になって思い出せば赤面したくなる出来事でも、当時にすれば真剣に問題と向き合っているが故の空回りだったりします。

今回レビューする『スイート17モンスター』はそんな普遍的なテーマを、コメディーの枠組みにしっかり捉え、その先にある成長の眩さを誠実に描いています。

監督、脚本を務めたケリー・フレモン・クレイグは、今回が初監督とのこと。そんなキャリアの浅さなど感じさせないほど、自然な話運び、演出を披露していました。

または、そのフレッシュな感性が本作のテーマと結びいた結果、このような良作が生まれたのかもしれません。

 

〈ネイディーンの“痛い”キャラクター〉

主役のネイディーンを演じたヘンリー・スタインフェルドの強烈な存在感がなければ、この作品の成功は難しかったと思います。彼女の愛らしくも下品で苛立たしい所作の数々や、情緒が抑えきないばかりに変化し続ける豊かな表情は、どこか癖になるものがあります。

教師のブルーナー(ウディ・ハレルソン)の昼休憩を邪魔する無意味おしゃべり。母のオフィスで、繰り返しホッチキスで書類を止めまくる手遊びなど。彼女の幼稚な言動は尽きることなく続き、コメディーにおいて強烈な役割を果たしています。

彼女が薬を飲んで人の関心を引きたがるあたり、少し病んでいるように見えますが、これは年頃の少女特有のものでしょう。

ネイディーンの子供っぽい性質をうまく表しているのが、極彩色なファッションです。

劇中にたびたび出てくる、青を基調に白と黄のラインがはっているジャケットはその代名詞です。原色の服ばかり出てくるもので、ファッションに敏感な人は、その点に注意を払うだけでも飽きないこと請け合いです。

色と言えば、何度か登場するジェラートフローズンヨーグルトは、アメリカのティーンエイジャーが好みそうな毒々しい、いかにもな食べ物でした。服と同じく彼女の幼さの象徴としてのアイテムです。

 

〈兄妹の微妙な関係性〉

ネイリーンの幼稚性の根源は、兄との関係にあります。

幼い頃から、できる兄と比べられることで、彼女の自己評価が低くくなり、その結果、承認欲求に飢えたモンスターになってしまいました。兄ダリアンの「自分大好き人間」というキャラクターは、圧倒的自信に因るもの。ネイディーンの劣等感は、兄の強すぎる明かりの影と言えます。

危険なバランス感覚で保たれている兄妹の天秤が、友情と恋を巡って、傾き崩れてしまうのは当たり前のこと。

ネイリーンを唯一認めてくれる存在がクリスタです。親友の存在がネイリーンの不安定な心を辛うじて支えていたのに、それを唯一絶対の比較対象たるダリアンに奪われる屈辱は、想像に難くありません。

また、ネイディーン自身の恋愛対象も、兄の影響を多分に受けているのが面白い。

当初、彼女が熱を上げていたのはビジュアルが優れたニックです。つまり、わかりやすく他者から認められる性質のある、人気者の記号としての人物です。ネイリーンが求めている恋人像は、己の自信のなさを補強してくれる要素が求められます。ダリアンとの対抗意識から、自分の価値を引き上げなければ、という心理が働くためです。

オタクっぽいアーウィンを歯牙にもかけなかったのは、上記の心理の逆作用と言えます。

この兄妹に関わる問題提起は終盤に置かれる展開、ネイリーンが何を乗り越えるのかの回答に綺麗に着地しているあたり、端正な作りの作品だと感じました。

 

〈父性を求める姿〉

本作は、兄妹を巡る物語だけに留まらず、父性が根深く絡む側面も有しています。

序盤にあるネイディーンの幼少期では、彼女と母の喧嘩を見事に仲裁する父の姿が描かれます。ここから、この家庭では、父が精神的な支柱であったことが分かります。

時が流れ、現在ではその支柱を失い、家族のバランスと関係が確実に変化しています。

母のモナが恋人の歯科医に裏切られたシーン、あんなに仲違いをしていた母と娘が慰め合い、睦まじい姿をみせます。失った“父性”という名の空白を、手を取り合って補う姿なのだと感じました。

兄のダリアンは自信に満ち溢れ、父性の代打に成り得るように見えますが、まだ若く、その域まで達していません。母から頼られながらも、それに応えきれない様子も描かれます。

本作で父性を代表するのが、文字通り、教え導く職業である教師のブルーナーです。

何かにつけてネイディーンが彼を頼り、愚痴をこぼすのは、自分のわがままを受け止めてくれる器を見出したからです。諭したりいなしたりと、余裕をもって彼女の突飛な言動を処理する様は、まさしく父親の風格を漂わせています。

終盤でブルーナーが、ネイディーンを家に帰るよう突き放すシーンがあります。父性に依存してきた彼女の自立の一歩目を促しているかのようでした。

 

〈乗り越えた先の自立〉

ネイディーンが乗り越えるべき相手は、当然、張り合い続けていた兄ダリアンです。

乗り越えるとは相手を打ちのめすことではなく、互いの存在を認め合い、丁度良い距離を保つことを指します。最期に兄妹で抱き合う場面はその象徴です。

ダリアンとクリスタの交際を受け入れたこと、容姿ではなくアート的な魅力のあるアーウィンに恋をしたことから、彼女がこだわってきた兄への劣等感が消えたことが見て取れます。

ネイディーンの情緒不安定な行動は、父性への執着を捨て、兄との適切な関係を築くことで取り払われました。ラストショットで彼女の見せた朗らかな表情が、それを物語っています。

 

この作品は、ど派手な色使いの見た目からティーン向けお気楽映画かと思われるかもしれませんが、油断して鑑賞していると、その堅実な造りに不意打ちを食らわされます。

一人の少女が、成長して大人の道を歩み出すその姿は、一見の価値ありです。是非DVDなぞで手に取ってみてください。

 

◆余談

本作では、ファッションが劇中で重要な役割を担うのですが、私個人はその方面に疎い。

わかる人なら服のブランドやデザインから、映画を読み解き、記事の一本を書くことが出来るのでしょう。以前『シングストリート』のレビューを書いた際に、映画レビューするにあたり、音楽の扱いに困っていると書きました。今回も同様のケースと言えます。

多分これらに限らずですけど、一つの分野に特化した知識をもった人が書く記事って一味違います。

なにか他に趣味でもあれば、もっと多角的な視点でレビューできるのにと考えていますが、何分、映画観て、本読んで、寝て、仕事してたらあっという間に日が過ぎてしまします。

別の楽しみは、人生に余裕ができてからにとって置きます。

自分の話をしようと思う。また、ブログのタイトルについて。

 

自分の事を語るのが苦手だ。気恥ずかしいのと、人に自慢できるような人間じゃないという自覚があるからです。

まずは、自分がこのブログを始めた理由に遡る。

いろんな映画を観るうちに、膨れ上がる想いがありました。「こんな解釈もできるんじゃないか」「こんな意味が込められているのではないか」と、作品に対して思考を巡らせることが何より面白かった。そして、ただ観ているだけでは、どうしても飽き足らなくなってしまったのです。映画に関する意見を誰かと共有したかった。誰かと繋がっていたい思いと、少しの自己顕示欲があったのは否定しません。多分、この手のブログを始める理由としては月並みなものなのでしょう。

しかし、実際にブログをやってみると、当初の考え以上の収穫がありました。それは、自分の思いを文字にし表出することの意義を実感できたことに尽きます。

何かを表現するって純粋に楽しい。文章を書くって本当に素晴らしい。なんの不純物もなく、感じる瞬間が確かにありました。

もっと書きたい。もっとうまく書きたい。多分これだけで自分の人生がずっと意味のあるものになったのだと思います。

とにかく、私にとってこのブログが人生の清涼剤として作用しているのですが、しかし、本ブログを続けていくにあたり、なにか足りないものがあると常々感じていました。気が付いたのが、なんだか味気ないなということです。

他の方のブログを拝見すると、みんな自分の話を盛り込むのが本当にうまいんです。

私が読者になっているブログは、概ね映画や文学のレビューが中心のものばかり。書いている記事のコンセプトは自分と同じはずなのに、私の無味乾燥なレビューとは大違いでした。随所にその人の人となりが垣間見えて、興味深かった。

考えてみたら、自分がレビューを書く際に、とにかく客観的視点を入れようと意識していたんですよね。結果的に自分個人の色が見えないものとなってしまいました。だから、私がどういった人間なのか少しだけ伝えたほうが良いと思い、今回の記事に至りました。

 

独り暮らしの男で、26歳。現在契約社員として働いており、別の仕事を求職中。仕事する中で、なにが自分に向いているのか、頭を悩ませています。映画に関わる仕事につけたら良いとか理想論もあります。

大学時代は文学部で、その際学んだ文学評論のメゾットが、現在の映画のレビューの基礎にもなっています。とは言え、当時は真面目な学生ではなく、卒業してからの方が本をよく読んでいます。

好きな小説家は、松本清張太宰治、奥田英郎など。

好きな映画は、いくつかあり、フランク・ダラボンの『マジェスティック』『50回目のファーストキス』ピクサーの『ウォーリー』などなど。他にも好きな作品はいっぱいあるのですが、オールタイムベスト10の紹介はまた追々にします。

 

次に、自分の性格ですが、何というかあまり器用な部類じゃないと自認しています。融通が利かないのが本来の性分で、その分損をすることが多々ありました。振り返って、もっと器用に生きられれば、どんなに楽だったのかと後悔する反面、生まれ持った性格が嫌いにもなりきれないのも事実です。

26年間生きて、この性格は世の中を生きていく上でむしろ弊害なのではと気がつきました。だから、何かに妥協したり、部分的にあきらめたりすることも必要だと最近になり実感し、自分を変えようと意識しています。多分それは悪いことなどではなく、この歳になって少しだけ大人になるということを理解できたのかもしれません。

現実においては自分の持つ理想通りにはいきませんが、このブログについては、話は別かなと思います。自分の好きなことを徹底的に追求し、心の赴くままに書きたいものを、書いていきたいと思います。

このブログのタイトル『愚直な奴の一点突破』は、私の厄介な性格も、見方を変えれば武器になるという考えが原点です。現実では実現不可能なものを、文章を通じて体現できたらなという思いも込められています。

 

これから先も、自分のペースではありますが、このブログを続けていきますので、何卒よろしくお願いします。

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』レビュー ~なぜ、この町が舞台に選ばれたのか~

 ◆基本情報

・原題『MANCHESTER BY THE SEA』

・2017年5月 日本公開 

・監督 ケネス・ロナーガン  脚本 ケネス・ロナーガン

・出演 ケイシー・アフレック、 ルーカス・ヘッジズ、 ミッシェル・ウィリアムズ、 カイル・チャンドラー

 

◆あらすじ

ボストンで便利屋として働いているリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は、不愛想で人を寄せ付けない男だった。孤独な日々を送る中で突如、兄が亡くなったという知らせを受け、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ることとなる。しかし、リーには故郷での悲しい過去があり……。

 

◆レビュー

今回はベンアフレックの弟、ケイシー・アフレック主演の『マンチェスター・バイ・ザ・シー』をレヴューします。2017年度(第89回)アカデミー賞において、主演男優賞脚本賞を受賞。華々しい評価の半面であまり目立った印象のないのは、宣伝の影響が強いからでしょう。私は本作をTSUTAYAでレンタルして鑑賞したのですが、店内に並んでいた在庫の少なさに唖然。同じくアカデミー賞関連作品で言えば、『ララランド』『メッセージ』『ムーンライト』辺りは、幅広いスペースを確保し、堂々たる陳列と販促が行われているため、これらの作品とは扱いが対照的です。思い起こせば、公開当時からTVやネットでのプロモーションは積極的でなかったように記憶しています。

それもそのはず。この静かな作品の雰囲気を考えれば、万人受けするものでないのは明白で、大々的な広告はかえって釣り合わないと思いました。

 

〈多くを語らない演出〉

とにかく、静かな作品です。

その作風は、主人公のキャラクターに体現されています。人との関わりを避けて、寡黙に独りで生きる姿は、辛い過去が影を落としていることの表れです。

リーの暗い孤独の色が際立つのは、周囲との落差の描写が効果的に作用しているからだと考えます。物語序盤でリーが黙々と便利屋の仕事をしている場面。行く先々で家主と事務的な会話をするのですが、彼らは家族や友人との関わりをもち、人の営みの輪に組み込まれたいたって普通の人々として描かれています。会話の節々にある、当然のやり取りの中から、リーと普通の人との差が露わになるのが、地味ながら巧みです。

その直後のバーでのシーンでも、明らかに女性から近づきアプローチをしてきているのに、避けてしまいます。その女性が他の男と酒を飲んでいる姿もチラッと画面に映り、何とも哀愁漂う場面です。

思えば、本当に独りになりたいのならば、家に籠っていればよいもの。バーに独りで飲んでいる人間の心理には、人の輪の中にいたい欲求が隠れているのではないでしょうか。これらの描写が表すもの、リーは心のどこかで“繋がり”を求めていたことが見て取れます。

静けさと言えば、マンチェスター・バイ・ザ・シーの情景も、良い味出しています。淀んだ灰色の曇り空と、その色彩を反射した海の水面が画面全体に広がります。降りしきる雪は激しさはないが、積雪から立ち上る冷気が針の様に皮膚を刺激する。そこから伝わるヒリヒリとした痛みは、リーの感じている孤独な心情と呼応します。

本作の公式サイト調べると、この町は観光地としての側面もあるものの、漁業あまり振るわないとのことでした。町の寂れた雰囲気が、映画の世界観をしっかりと醸成させています。

演出に関して、全編に亘って無駄なセリフを削っているのが英断です。

兄の葬儀のシーンや、ラストの漁船で釣りをするシーンなど肝心な場面では、特に静寂が画面を支配します。セリフで語られるのは、物語のテーマとは直接的には関係ない日常的な会話で、そのやり取りの滑らかさには、実は高度な技量が要求されます。

物語を通して何かを伝える時、どうしてもそのメッセージを直接語りたくなるもの。そこをグッとこらえる忍耐があるかないかが分かれ道となる。

本作でアカデミー脚本賞を受賞したケネス・ロナーガンが評価されたのは、この“あえて語らない”決断力が大きかったのだと考えます。主人公リーのキャラクター、マンチェスター・バイ・ザ・シーの雰囲気、悲しみと対峙する物語、すべてを考慮したうえで、作品の解釈をわれわれ観客に投げかける勇気を持った脚本だと言えます。

 

〈血の繋がりがもたらすもの〉

ストーリーが動きだすとっかかりは、兄ジョー・チャンドラー(カイル・チャンドラー)の死とそれに端を発した後見人問題です。リーはこの件で否応なく甥のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)と交流をもつ羽目になるわけですが、感心したのはこの二人の距離感です。

変にべたべたしない男二人の関係性が絶妙な塩梅になっています。リーは自分の犯した過失から自責の念に捕らわれ続けていて、パトリックは一見明るく振る舞ってはいるものの、父を失った痛みを心底にしまいこんでいます。共に痛みを抱えるもの同士が、心を通わせていく過程は、むずがゆいような微々たる心理の変化でしか現れません。

結局二人は、一緒に住むのではなく別々に暮らす道を選ぶわけですが、この選択も彼ららしい道だといえます。

それでも、二人の関係を愛おしく思うのは、不器用ながら互いに慮る感情が芽生えているのがわかるからです。ラストシーン周辺のやり取りがなんとも秀逸。リーが新居の話をする際「ソファーベットを買うか」と言うところ、パトリックをいつでも迎え入れる気持ちをぶっきらぼうに表しています。そして二人が、道端でボール遊びをする後姿が微笑ましい。

どうしようもなく悲しい時、なにも言わなくてもただ隣に寄り添う誰かがいるだけで、人の心は癒されるものです。

後見人制度とは本来、未成年者の援助を目的としています。しかし、助けられたのはパトリックだけでなく、制度によって引き寄せられたリー自身もでした。

血の繋がりや、そこに関わる法や制度はよくできたもので、人との関わりを繋ぎ止め、孤独から救い出す“鎖”の役割を担っています。

 

〈重層的な構造〉

本作の構成として、時系列を交互に重ねる重層的な造りになっています。一つ目の時系列は、現在、兄のジョーが亡くなり、リーが孤独に過ごしているとき。二つ目の時系列は、過去、リーがマンチェスター・バイ・ザ・シーで暮らし、妻も子供もいたとき。

この物語構造は、とても機能的な構造と言えます。

一つ目は、主人公のバックグラウンドを掘り下げるにあたっての流暢な語り口としての機能。そのままの時系列順に並べた構成にすれば冗長で退屈になりそうなもの。特に本作のような静かで派手な動きのない映画の場合、顕著に退屈が表れる恐れが強い。その点、重層構造を取り入れることで、主人公の過去をミステリー要素を含ませ、本作を幾分か刺激的に成立させています。

二つ目は、主人公の孤独を引き立たせるための対比の機能。過去のリーは、家族があり、友人もいて明るく社交的な人物でした。重層構造を駆使して、現在のリーの不愛想で寡黙な様子と交互に描き対比させることで、彼の変わり様を明瞭に表現しています。その落差が大きいほど、彼の抱えていた罪悪感がより強く感じられるのです。

三つ目は、リーの混濁した精神状態を表す機能があります。現在のリーがソファーでうたた寝をした場面、瞬間、娘たちが近づいてきて、過去のエピソードに移ったのかと錯覚するのですが、それはリーの夢でした。あの場面のある種の騙し演出は、重層構造があったからこそ機能が強まり、観客をドキッとさせます。あのワンシーンだけでも、主人公の不安定な心情が読み取れます。

セリフだけではなく、構成についても考え抜かれた造りであることが分かります。

 

マンチェスター・バイ・ザ・シー

物語の舞台はなぜ、マンチェスター・バイ・ザ・シーでなければならなかったのでしょうか?

前述した、町の雰囲気が非常に良いことに加えて、もう一歩踏み込んだ考えをしてみようと思います。

以下に『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の公式サイトより、ケイシー・アフレックのインタビューを引用します。

 

 

——ケネスはどうやって彼自身は知らない町の地元感を出したんでしょうか?

「そう、彼はマンチェスター・バイ・ザ・シーに行ったことがなかったと思う。彼の『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』や『マーガレット』はニューヨークが舞台だ。ほかにも彼は南部のどこかの町を舞台にした、劇の脚本を書いたこともある。彼の脚本はまるで地元で育った人が書いたとしか思えないものだ。耳がいいだけでなく、たぶん万人に通じる話し方に精通してるのだと思う。地域特有のアクセントやスラング、口調なんかは身につけることが可能だけど、脚本で重要なことは、物語の内容や登場人物たちの描写の仕方。彼の脚本は魔法みたいだよ。登場人物はみな複雑で、本物の人間みたいだ

 

 

上記のような発言にあるように、監督、脚本のケネス・ロナーガンは、マンチェスター・バイ・ザ・シーとあまり縁が深くないようです。それでも、舞台にこの町を選んだからには、理由があることが推測できます。

私が着目したのは、町の名前に関する歴史です。

一通り調べたところ、“マンチェスター・バイ・ザ・シー”という町の名前は、その成立が一風変わっていることが分かりました。

マンチェスター・バイ・ザ・シー”はマサチューセッツ州に属しており、元々はシンプルに“マンチェスター”という名前の町でした。ところが、近郊のニューハンプシャー州の巨大都市も“マンチェスター”という同じ名前だったため、両都市の混合を避ける目的で、マサチューセッツ州の“マンチェスター”を“マンチェスター・バイ・ザ・シー”と改名しました。

ニューハンプシャー州の“マンチェスター”は人口10万人程の工業都市で、非常に栄えています。

対して、本作の舞台であるマサチューセッツ州の“マンチェスター・バイ・ザ・シー”は、人口5千人程の海沿いの町で、こじんまりとした静か雰囲気があります。

両都市の対比は、栄えて賑やかな都市と、寂れた町と言い換えることが出来ます。

つまり、この現実における町の対比は、本作の重層構造によって描かれてきた主人公リーの過去と現在の対比と対応関係にあるのだと考えられます。

愛する家族がいて、人に囲まれた生活を送っていた過去のリーに相当するのが、ニューハンプシャー州の巨大都市“マンチェスター”です。

孤独に寂しく暮らしている現在のリーに相当するのが、マサチューセッツ州の寂れた町“マンチェスター・バイ・ザ・シー”です。

また、マサチューセッツ州の“マンチェスター”から“マンチェスター・バイ・ザ・シー”への名称の変化は、人に囲まれていた過去から、人との繋がりのない寂しい現在のリー自身の変貌とイコールと考えます。

素朴で変哲もない外見とは裏腹に、舞台になる町にもさりげなく高度な意味付を持たせ、映画を読み解く楽しみを多様に盛り込んだ本作。観た人すべてを魅了する、とまでは言わないまでも、孤独な誰かの心に染み入るような作品であることは間違いありません。

 

◆余談

ほんとに余談なんですけど、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の劇中でスタートレック論争がチラッとあります。前回の『ローガン』のレビューにて、いつかスタートレックに絡めたことを書きたいといった矢先に本作を観てたので、妙に感激しました。ほんとただの偶然でしょうけど。そもそも本筋と一切関係ない所でスタートレックの話がでてくるし……。

ちなみに、このレビュー内で「バーに独りで飲んでいる人間の心理には、人の輪の中にいたい欲求が隠れている」という理屈を使いましたが、これは新スタートレックの第五シーズン「流浪のベイジョー星人」より、バーで一人うちひしがれるロー・ラレン少尉に対し、ウーピー・ゴールドバーグ演じるガイナンがたしなめる際の発言から影響されたものです。

もしかしたら、ケネス・ロナーガンもそこから影響受けて、バーのシーンを入れたのかな?なんて深読み(多分違うか)をしました。

こんなマニアックな話をして、果たして通じるか不安ですが、誰かわかる人がいたらレスポンスください。

『ローガン』原題『LOGAN』レビュー ~彼はヒーロー足り得たのか~

 ◆基本情報

・2017年6月 日本公開 

・監督 ジェームズ・マンゴールド  脚本 ジェームズ・マンゴールドマイケル・グリーンスコット・フランク

・出演  ヒュー・ジャックマンパトリック・スチュワート、ダネフ・キーン

 

◆あらすじ

ニュータントが生まれなくなってから25年。ローガン(ヒュー・ジャックマン)はリムジンの運転手をしながら、ひっそりと暮らしていた。かつて、ニュータントたちを救い、導いてきたチャールズ・エグゼビア(パトリック・スチュワート)は認知症を患い、日々の生活もままならない状態だった。

資金を貯め、国外に逃れようとしていたローガンに、ある女性から依頼が申し込まれる。それは、一人の少女を救ってほしいというものだった。

 

◆レビュー

このブログでジェームズ・マンゴールド監督作品を扱うのはこれで二回目で、以前『17歳のカルテ』をレビューしました。

『17歳のカルテ』のレビュー気に入っていて、結構出来が良いと自画自賛しているので、まだ読んでいない方がいましたら、是非一読してみてください。

 

movielocallove.hatenablog.com

X-MENシリーズの最新作にしてウルヴァリンシリーズの完結作である『ローガン』。

私はX-MENシリーズへの思い入れがそれなりにあるほうで、初期三部作から追いかけて、ここ数年の新三部作やらスピンオフシリーズを漏れなく鑑賞しています。

一応ファンと言って差し支えないとは思います。もっとも、ここで注釈を入れるならば、アクション娯楽大作としての支軸で捉えてたからこその評価になります。

シリーズの長期化に伴うインフレは避けられないもので、その点含めて楽しめるのか、あるいは許せるのかが、本シリーズの認識の枝分かれと結実します。

上記のような人気シリーズゆえの宿命を背負っているのは確かですが、本作『ローガン』に限っては、また別の観点で興味深い映画だったと言えます。

前述した『17歳のカルテ』のレビューでも触れているのですが、ジェームズ・マンゴールド監督は特に近年、大作映画への傾倒が強いと言えます。一見、本作『ローガン』もその大作映画の一つに組み込まれているようにも見えますが、実はむしろ、監督の初期作品群にあった繊細なドラマ性に重きを置いている作品となっています。

これは孤独な男の物語です。彼は能力故に永い人生を強いられてきました。愛する者を失って、それでも歩んできた人生の最後、ローガンが獲得したものに、感傷の思いをこらえきれませんでした。

 

X-MENシリーズのおさらい〉

非常に息の長いシリーズの為、簡単な概要を書いておきます。なお、作品内時系列と、映画公開の時系列は特に揃えていないためご注意を。

まずは2000年公開、ブライアン・シンガー監督の『X-MEN』から始まります。続いて『X-MEN2(2003)』『X-MEN ファイナルディシジョン(2006)』までの三部作が作られます。

その後チャールズ・エグゼビアとマグニートを中心に据えた『X-MEN ファーストジェネレーション(2011)』『X-MEN ヒューチャー&パスト(2014)』『X-MENアポカリプス(2016)』が制作されます。

主にこれら6作品が本シリーズの主軸と捉えられ、そこから派生する形でウルヴァリンのスピンオフ作品に繋がります。

ウルヴァリン誕生の秘密を描いた『ウルヴァリン X-MEN ZERO(2009)』、ウルヴァリンが日本で活躍する『ウルヴァリン SANURAI(2013)』と着々と作られてきました。

本作の監督ジェームズ・マンゴールドは『ウルヴァリン SANURAI(2013)』を手掛けたことで、『ローガン』の監督に抜擢されたことは明らかです。

しかし、私の見解では『ウルヴァリン SANURAI』はどう見ても、出来がいいいとは言えない代物で、シリーズワーストは避けられないと思います。

話が突飛すぎるのは、この手のジャンル映画ではどうにもならない部分です。それでも他の作品群が、何とかして保とうとしていた説得力は、この『ウルヴァリン SANURAI』には、決定的に欠如しています。

その原因は、ハリウッド映画特有と言うべきか、日本要素への捉え方の方向性が微妙にずれていからだと考えらます。日本へのリスペクトがあるのは認めますし、すべて間違っているわけではないのですが、ある種、戯画化した描き方をすることで生じる浮遊感がどうしても拭えない。それに加えて、SF映画の孕む「嘘っぽさ」とが融合し、結果的にリアリティの喪失を招くこととなりました。

では、そんな流れを汲む『ローガン』はどのような作品だったのでしょうか?

 

〈凄惨なアクションシーン〉

冒頭のシーンから、この作品のテイストが明快に提示されています。

商売道具のリムジンで眠っていたローガンが、柄の悪い、不穏な物音で目を覚まし、そこにはメキシカンギャングが、車の部品を盗もうとする姿があります。

注意しようとするローガンに対して、問答無用で銃を放つ瞬間は、ハッと息を飲む感覚に襲われました。

驚異の回復力を持つはずのウルヴァリンですが、その能力が陰り、衰えていている様も伝わりました。

高々ギャング数人に、手こずってしまうのが何とも痛々しく、今まであらゆる強敵と対峙してきたヒーロー・ウルヴァリンの終焉が見て取れます。

以前ならばどんな傷でもたちどころに治っていたのが、今となってはそうはいきません。ローガンが鏡の前で、胸に撃ち込まれた弾丸を力みながら押し出すところは、自傷的かつ官能的な名シーンです。もちろん、ヒュー・ジャックマンの妖艶なまでの肉体美があってこそ成立したことは、言うまでもありません。

最大の武器の三本ある鉤爪の内、一本が伸びきれず、自力で引き伸ばす様子は憐れみの色さえ滲みでていました。

老いて、力を失うローガンとは反対に存在するのが、11歳の子役ダネフ・キーン演じるローラです。爬虫類的な愛らしい顔つきが印象深いうえ、演技も素晴らしく、凶暴さと子供の無邪気さを併せ持つ好演をしていました。

ローラの子供ならではのアクションシーンは必見。身軽に飛びかかり、容赦なく首を引き裂く様子は、残忍だけれど爽快感の宿った立ち回りでした。ローラのアクションシーンでは、『キック・アス』のヒット・ガールを想起させられました。

序盤で出てくるカーチェイスも工夫が凝らされて、キャラクターの持つ強みだけに捕らわれない、アクションの基礎地も確かです。

本作のアクションシーンに通底しているのは、その凄惨さです。血しぶきをあげ、あっけなく切り落とされる生首や腕。特別強調するのではなく、さもありなんと見せられるグロテスクな描写の数々は、現実に根差した本作のテーマを考慮すれば必然です。R-15指定も避けがたい措置と言えます。

これらの凄惨なアクションシーンは、今までのX-MENシリーズで描かれていたそれとは対照的です。これまでのはヒーロー映画におけるアクションです。つまり具体的な描写を省き、あるいは簡略化することで、凄惨さを避けてきました。あくまで、娯楽に従事するための暴力だったものが、本作ではその暴力の持つ本質を真っ向から描いています。

今まで、ヒーロー・ウルヴァリンがしてきた行いを、真の意味で振り返ると言う意味において、これらのグロテスクな描写は必要不可欠と言えます。

 

〈苦悩する人間としての彼ら〉

チャールズ・エグゼビアと言うキャラクターは、若いころの姿をジェームズ・マカヴォイが演じ、老年になってからの姿をパトリック・スチュワートが演じています。マカヴォィのチャールズもセクシーでそれはそれで良いのですが、パトリック・スチュワートのチャールズは絶対的に頼れる存在感を醸し出していました。

それだけに、スチュワート版のチャールズが認知症を患っている場面は、ショッキングです。思慮深く、理知的だったチャールズも、一人の人間だったのだと改めて認識しました。

チャールズが、自分や周りのことを思い出せない姿以上に衝撃的だったのは、彼の死に際のシーンです。シリーズの中でも最重要人物と言っても過言ではないチャールズが、あんなにあっけなく殺されてしまうとは、本当に予想できませんでした。

チャールズの死は、いくらでも感傷的に演出できそうなところなのに、あえて淡白に過ぎ去ってしまうかのように描かれます。これには理由が考えられ、一つに、今作のリアリティ路線の追及に即した演出を取ったからでしょう。しかし、変に大仰な演出にするよりも、引き算した演出の効果で、大切な人を失った喪失感はかえって浮き彫りになります。

もう一つは、あくまでこの物語はローガンという孤独な男に焦点を当てたかったのかと考えました。ローガンにとって父性を象徴するチャールズが無機質な死を迎えることで、ローガンの孤立した心情が深まります。

その孤独な男が抱える苦悩こそ、本作の主題である罪と罰にまつわる葛藤です。

戦争を経験し、その後もヒーローとして、幾人もの人間を殺してきたローガンの背負った十字架は、果たして許されるものなのか?先に書いた、暴力の本質はこのテーマへの助走だったことは、言うまでもありません。

劇中で流れる映画『シェーン』のセリフ「一度人を殺してしまった者は元には戻れない」がテーマを読み解くキーワードになります。

チャールズを失い、「エデン」も実在はしません。最期ローガンに残されたのは、ローラだけです。ローラはローガンと同じ能力を人為的に植え付けられた、人工のニュータントで、そのため、遺伝上のつながりはあるのでしょう。しかし、それよりも旅を続ける中で芽生えた精神的な繋がりの父性の方が先だっているのだと考えられます。

彼女を救うことが、ウルヴァリンに課せられた最後の使命です。

 

〈ヒーロー性の奪還〉

ローガンが最後に対峙する相手が、自分のクローンであることも当然意味深いところ。

敵対者は、能力が衰える前の自分。殺人の罪を重ね戦うことでしか存在意義を見出せなかったかつての自身の投影であると言えます。

ローガンが人を傷つける夢にうなされ、何かに怯えながら暮らしてきたのは、過去の自分の行いから逃げ続けていたからです。

彼が最後に戦う理由は一つ。ただ、ローラを守ることだけです。

ローガンの無残な死にざまに象徴されるように、結局殺人の罪を犯した人間が安寧を得て最期を迎えることは叶わないのかもしれません。

それでも、ローガンの死に意味があるのは、ローラを守ろうと立ち上がったことに尽きます。誰かを守ることがヒーローの本質ならば、ローガンはそれを最後まで全うできたのだと言えます。

ラストシーン、ローガンの墓に立てられた十字架を、ローラが横たえ「X」の文字に見立てます。十字架を下ろし罪人としての彼を許すとともに、X-MENを司る「X」の文字がヒーローとしての彼を象徴させているのです。

人は誰かのために命を懸けてヒーローに成り得たとき、過去に犯した罪を贖うことが出来るのではないでしょうか?

ローガンの求めいていた問の答えはここに示されます。ローラを救ったことで、ローガン自身を救ったことにもなりました。

ローラもまた孤独な人生の中で誰かのヒーローになったとき、罪の決着をつけることになります。愛する父、ローガンがそうであったように。

 

この作品は『ウルヴァリン SANURAI』での負債を十二分に返すに値すると断言します。ジェームズ・マンゴールド監督の哲学的テーマ性を刻印しつつ、エンタメ性も損なわない『ローガン』は、「ヒュー・ジャックマン最後のウルヴァリン」の触れ込みに釣り合う傑作でした。但し、最低限『ウルヴァリン X-MEN ZERO』辺りは観ておいたほうが無難でしょう。

 

◆余談

二か月位ブログの更新が滞ってしまいました。理由はよくあることで、私生活の方が忙しかったから。ブログ休む理由って、大抵の人が私生活が忙しいからでしょうから、面白くもない理由ですよね。

あと、これからはなるべく、月に二、三回は更新するよう心掛るつもりです。

 

チャールズ役のパトリック・スチュワートは、スタートレックピカード艦長役が大好きです。ひいては、スタトレが好きなので、いつかこのブログでも、スタートレックに絡めた記事をかけたらなと考えています。いつになるかはわかりませんが……。

『雨の日は会えない、晴れの日は君を想う』原題『Demolition』レビュー ~ 邦題の示唆するもの メタファーに彩られた世界観~

◆基本情報

・2017年2月 日本公開 

・監督 ジャン=マルク・バレ 脚本 ブライアン・サイプ

・出演 ジェイク・ギレンホール、 ナオミ・ワッツ、 クリス・クーパー、 

 

◆あらすじ

ウォール街のエリートだったデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は、交通事故によって妻を亡くしてしまう。

しかし、妻が死んだにも関わらず、デイヴィスは一切涙を流すことはなかった。この出来事を機に、デイヴィスは自分が妻をないがしろにしていたことを自覚するようになった。

彼は苦悩していたところ、義父のアドバイスを受けて、様々なものを「解体」するようになる。

 

◆レビュー

掘り出し物の映画を見つけたとき、たまらなくうれしくなってしまう。それは、期待値の低さを上回ったお得感と言うよりも、人生どこが転機になるのかわからない楽しみと言ったほうが正確でしょう。

映画を観る時には、あまり先入観を持たないように心掛けています。というのも、一面的な見方をすると映画の解釈の幅を狭めてしまい、本当の意味で作品を楽しめなくなってしまうからです。とはいえ、理屈とおりにいかないのが人間というもの。なんとなくの印象で良いの悪いのと予想を立ててしまうこともしばしば。

今回レビューする『雨の日は会えない、晴れの日は君を想う』について、正直どうかなと思いながら鑑賞し始めたのですが、見終わってその完成度の高さに唸りました。

作品の随所に散りばめられた隠喩の数々が、妻を亡くした男の繊細な心を揺さぶり、夫婦の間にあった淡い繋がりというテーマ性を浮かびあがらせることに成功しています。

 

〈揺れ動く感情表現〉

本作は、一風変わった物語設定になっています。

この手の作品の類型的な例として「最愛の妻を亡くして、そこからどのように立ち上がるのか」といった型があります。この型では、失意のどん底とそこを乗り越えた先の二つを二項対立的に捉えている為、シンプルな話運びになります。エンタメ作品としてとらえれば、起伏に富んだ、わかりやすい作品と言えるでしょう。

これらの作品と、本作が一線を画す点は、亡くなった相手を愛していたかどうか判然としないところにあります。無関心だった連れ合いを失った時、自分は何を感じ、どのように立ち上がればよいのか、がこの作品の大まかなテーマになっています。そもそも愛していたかどうかも定かではないがゆえに、悲しむべきなのかすらもわからない漠然とした心理がスタート地点となります。したがって、自身の中でなにが問題なのか模索する、繊細な心の動きが描かれます。

現実の問題に置き換えたときに、誰かの死が必ずしも悲しむべきものでないときがあるのも事実。夫婦の関係にしても、単純化した図式で割り切れない関係も案外多いのかもしれません。

上記の繊細な心理描写を可能にしているのは、ジェイク・ギレンホールの好演が大きいと思います。悲しみの代価として緩やかに心が崩れていく様を表情、仕草で巧妙に表現できており、彼の放つ男性性の中から滲む人間の脆さの演技が、本作の屋台骨であるのは間違いないと言えます。

ちなみに、近年のジェイク・ギレンホールの出演作『サウスポー』は、先に挙げた「最愛の妻を亡くして、そこからどのように立ち上がるのか」という筋書きそのままの作品になっているます。二作を対比して鑑賞してみるのも一興かもしれません。

他にも、映像的表現として、常に画面を固定せずにほんの少し揺らしている技法が用いています。常に不安定なカメラの視点を入れることで、主人公デイヴィスの揺れ動く心理描写を表現しています。

 

Demolition=解体〉

義父からのセリフの「心の修理は車の修理と同じ」が、主人公の行動の原点です。デイヴィスがどんな物も分解するようになったのは、言うまでもなく自分の心の内を解明したい欲求のメタファーになっています。また、彼の分解する癖の始まりが、冷蔵庫になっているのもポイントです。

劇中で描かれる分解は徐々にエスカレートしていき、破壊衝動にまで至ります。どうにもならない感情を何かぶつけ、もがく姿は痛々しく映りました。

デイヴィスが防弾チョッキを着て、自分を打たせるシーン。死を弄び、自分を傷つけなければ生を実感できない所まで追い詰められており、これも一種の破壊衝動なのだと言えます。

 

〈妻からのメタファー〉

表面上、デイヴィスは妻に無関心であったし、妻も他の男と浮気をして妊娠、中絶までしていたことから、この夫婦の関係は破綻していたように見えます。しかし、本作の終盤で明かされるメモの意味に気が付いた時、夫婦の間にあった仄かな愛情が見えてきます。

車の中で見つけた「雨の日は会えない、晴れた日に思い出す」とのメモは妻が残した物。そして、このメタファーを読み解く上で重要なのは、映画冒頭であった冷蔵庫の水漏れの件です。冷蔵庫の水漏れ=雨が降っている状態を示します。冷蔵庫の水漏れについては、妻が以前から相談していたことであり、それをいつまで経っても放置しているのは、デイヴィスが妻に無関心であることの象徴です。つまり、「雨の日は会えない、晴れた日に思い出す」とは、冷蔵庫の水漏れが直っていない状態=私に関心がないあなたとは分かり合えない。でも、冷蔵庫の修理を終えた状態=あなたが私の話を聞き、関心を示すならば、出会った頃を思い出す。という、妻からの愛情のサインでした。

また、メモを発見し、事故の直前を思い出す瞬間「俺の椅子じゃねから関係ねぇ」という妻のセリフもフラッシュバックします。これは、二人が出会ったパーティーの時に、偶然テレビで流れていたトカゲのアニメーションのセリフであり、二人が出会った頃の馴れ初めを象徴するセリフと言えます。これらが示唆するのは、妻は夫との思い出を大切に持ち続け、出会った頃の関係に戻りたかったことです。

メタファーの先に隠された真意。デイヴィスがなんの関心も持たなかった灰色の関係の中にも、本当は妻からの愛情の片鱗があったのだと言えます。

 

〈メリーゴーランドに込められた思い〉

ラストシーンに登場するメリーゴーランドは、誰からも見向きもされず解体待ちであったことが、中盤の会話で明かされています。メリーゴーランドは、デイヴィスに振り向いてもらえなかったジュリアのメタファーです。

そのメリーゴーランドを、妻が好きだった海の浜辺に建てることは、ジュリアとの思い出の復元であるといえます。

心の解体を続けていたデイヴィスでいたが、葛藤の先に辿り着いた答えは、壊すのではなく修復することです。無関心だった過去の中に、かけがえのないものを見つけた彼は、もはや何も解体する必要がなくなりました。

本作は、身近にいる人の大切さを説いた作品。いつも当たり前のようにあるものは、近すぎてその重要性に気が付きづらいのもです。失って後悔した感情の量だけ、過去に無自覚に享受していた愛情の価値を再確認することが出来ます。

この後悔の物語から伝わってくるメッセージは、翻って今現在、目の前にある何かの儚さと美しさを際立たせています。もし、この映画を観た人がいるならば、その瞬間、隣にいる大切な人のことを考えてみるほうが良いかもしれません。人生において、その繋がりがいつ失われるか、わからないのですから。

 

◆余談

ジェイク・ギレンホールの出演作結構観ています。しかも、それは意識的にと言うよりも、偶々鑑賞してきたなかのに多くあったといった感じです。あるいは、彼の出演作が多すぎるあまり、その遭遇率が高いだけとの見方もできますが……。今回レビューを書くにあたり、ざっと調べたのですが、この人凄い数の作品に出てるよ。結構好きな俳優なので出演作を追おうかと思ったのですが、流石に全部は断念しました。またいつか縁があれば、スクリーン上でお目にかかれると思います。

『鑑定士と顔のない依頼人』原題『LA MIGLIORE OFFERTA』レビュー ~真贋の選択 技巧の影に隠された意図~

 ◆基本情報

・2013年12月 日本公開 

・監督 ジュゼッペ・トルナトーレ 脚本 ジュゼッペ・トルナトーレ

・出演  ジェフリー・ラッシュ、 シルヴィア・フークス、 ジム・スタージェス、 ドナルド・サザーランド

 

◆あらすじ

凄腕の美術品鑑定士として知られているヴァ―ジル(ジェフリー・ラッシュ)は、奇妙な依頼を受ける。その相手は電話越しでしか依頼内容を伝えず、一向に姿を現さない。初めこそ苛立ちを覚えたヴァ―ジルだったが、謎めいた依頼人に好奇心が芽生え始める。その心情は徐々に恋心へと変貌を遂げることになる。

 

◆レビュー

今回レビューするのは、イタリアの名監督として知られるジュゼッペ・トルナトーレの作品『鑑定士と顔のない依頼人』です。とは言ったものの、私の不勉強で彼の作品はあまり観たことがないのが現状です。代表作である『ニュー・シネマ・パラダイス』だけは、10年ほど前に鑑賞したのですが、イマイチ記憶に残っていません。当時は全然共感できなかった印象だけはあるため、本作も苦手意識があったのですが、蓋を開けてみればそんな先入観など消え去りました。

劇中に登場する優美巧妙とした美術品の数々がそうであるように、本作は散らばまられた謎に彩られ、その点と点が流麗な曲線を描き、非常に精密な絵画のような仕上がりになっています。

なお、今回はミステリーというジャンルの特性上、ネタバレが気になる方も多いかと思われます。しかし、毎回読んでくれている方なら既にお気づきでしょうが、このブログのレビューは常にネタバレ全開で書いています。その辺の配慮は一切いたしませんので、ご了承ください。

まだ観てない方、もし可能ならばTSUTAYAかどこかでレンタルして、鑑賞の後このレビューを読んでいただければありがたいのですが、厚かましいでしょうか?

 

〈高雅な世界観〉

なんといっても本作の目玉の一つは、その世界観。美術品それぞれの放つ美麗な造形が、そのまま映画の外形の構築にも繋がります。芸術作品への視点、鑑定士ヴァ―ジルの口から語られる文学的ですらある批評の言葉はインテリジェンスの匂いを発し、ときに官能性をも滲ませます。

残念ながら、美術品周辺の専門知識がない私には、各々の持つ芸術的価値を測ることはできませんが、映画内における説得力を担保するには十分な情報が詰まっているのだといえます。本作の様に、ある特定の分野や職業を題材にするとき絶対的に必要なのは、実際の分野におけるディティールを追及できるのかという点です。その積み重ねが、作品全体の出来如何を左右します。

また、美術品のに関わる真贋を巡るやり取りが、後述する本作のテーマと繋がっているのが面白い。洒落た世界観を、ファッション的に楽しむだけに留めず、論理的な意味合いの下支えに役立てたところが、傑作足りえた所以です。

 

〈ヴァ―ジル、クレアの恋愛模様

初めに提示されるヴァ―ジルという男の人物像は、端的に言えば堅物、偏屈、傲慢といったところでしょうか。芸術への圧倒的な知識と、鋭い感性に裏打ちされた自負が肥大化し、周囲の人間にも尊大な態度をとります。長年かけて行った偉業が、彼の持つ人生観を頑ななまでに固定しているのです。

また、ヴァ―ジルは恋愛に関してはかなり奥手です。修理技師のロバート(ジム・スタージェス)がプレイボーイとして描かれているのと対比させてあります。

その強固な人生観を揺るがす人物が、本作の謎の依頼人クレア(シルヴィア・フークス)です。

ヴァ―ジルが彼女に惹かれたのは、そのミステリアスな存在感が大きく影響します。クレアは人間のもつ、知りたいという欲求を刺激し、妖艶な花の香りの様に誘惑します。美術品の奥に潜む価値を探求してきたヴァ―ジルの本質が、クレアの持つ魅力を見逃せなかったのは当然と言えます。そして、そのヴェールの裏には、ヴァ―ジルが持つどの美人画よりも美しい女性が隠れています。

他にもヴァ―ジルが惹かれた理由を挙げれば、クレアの持つ精神の歪さが重要です。彼女は広場恐怖症によって長年屋敷から出られないと語ります。クレアの閉鎖的な人生は、ヴァ―ジルの持つ人生観に通じるところがあり、その類似が彼を恋へとのめり込ませたのでしょう。ヴァ―ジルがクレアを外の世界に連れ出そうとするのは、彼も現状の自分の殻を破り、凝り固まった人生観を壊したい欲求に駆られていたことが想像できます。クレアの広場恐怖症とヴァ―ジルの潔癖症は同一線上の問題として位置づけられています。

ヴァ―ジルの変化を表す描写はいくつかあり、例えば髪の毛について。元々身だしなみのこだわりで髪を黒く染めていたのが、クレアとのやり取りに影響され白髪に戻す場面はわかりやすいでしょう。また、携帯を持たない主義も変えています。彼女と少しでも話したい、そんな心の動きは、初めて恋をした少年のようでした。

クレアがいなくなった展開のとき、競売の最中にも関わらずクレアが見つかったのかを確かめるため電話をし、失態を演じる様は滑稽です。彼の中で、長年続けてきた競売の仕事より、一人の女性の方が優先されていることがわかります。

 

〈ミステリー作品として〉

この作品のラストで明かされるのは、壮大な詐欺の物語です。

終盤まで描かれてきたヴァ―ジルとクレアを巡る恋の物語は、ロバートの筋書きによるものでした。ロバート、ビリー、クレア、サラ、ランバートは全員グルで、すべてはヴァ―ジルの自宅にコレクションされている大量の美人画を盗み出すための計画。その目的ために、ヴァ―ジルがクレアを追い求めるよう仕組まれていたのです。

そのオチを引き立てるために、劇中には多くの伏線が隠されていました。

まずは、バーにいる小人症の女性。彼女が数字に関して異常な記憶力を持っているのが重要な役割を担っています。クレアが失踪した展開の際に、ヴァ―ジルがバーで「あの屋敷から出てきた女性を見なかったか」と聞く場面があるのですが、その時小人症の女性は「231」と呟いています。後に明かされますが、クレアは広場恐怖症などではないため、自由に屋敷を出入りしていました。その回数こそがまさしく「231」です。また、実は彼女こそ屋敷の本当の持ち主である「クレア」だったことが明かされ、この本物のクレアの口から事の顛末が語られるのが憎い演出です。更に言えば、本物のクレアの存在自体が、詐欺を露見するヒントになりえるのに、ロバート達は特に彼女の存在を隠そうとはしません。

他にも、黒幕であるロバートを一度疑うよう、サラがヴァ―ジルを唆すのも、観客へのミスリードと、ロバートの心を弄ぶ効果を発揮します。

オチの際、美人画のある隠し部屋でヴァ―ジルをあざ笑うオートマタを、本人の目の前で組みあげるのも何とも大胆不敵。

このように大それた詐欺を働いているのに、あえてヴァ―ジルの目の前にヒントを提示するのは、ロバートらが一連の詐欺を芸術として捉えているためです。劇中のやりとりであるように、贋作者は必ず作品にサインを残すものです。ヴァ―ジルの信じ込んだ虚構の物語を、ロバートらは、自分たちが造り上げた作品であると誇示せずにはいられなかったのです。

踊り子の絵にサインを残していたのも同様の理由からといえます。

 

実の所、本作におけるどんでん返しのネタ自体はさほど新鮮なものと言えません。しかし、演出や丁寧に作り込まれた世界観によって、うまくお話として昇華できているのだと思います。ヴァ―ジルの恋心に感情移入し、甘美な物語に没入することで、謎の全容を予測することを忘れてしまいます。もっとかみ砕けば、この物語を愛おしく思えたからこそ、ミステリーとしての成功もなし得たのだと言えます。

 

〈贋作の価値〉

上記の通り、ミステリーとして十分な水準に達しているのは間違いありませんが、本作の真価は他にあります。

初めに提示された頑なだったヴァ―ジルの人生観は、クレアとの恋によって変貌を遂げ、実際の女性を愛せず絵画の中の美に愛を求めていた男が、痛みを伴う血肉の通った恋に魅了されていきます。その過程で鑑定士としての自分、つまりは本物の芸術に価値を見出すことに捧げてきた人生を放棄することも決意します。しかし、ヴァ―ジルが人生を投げ売ってまで得ようとしたクレアとの愛はすべて虚構でした。

本心では詐欺だとわかっていてもクレアとの愛を信じたい「いかなる偽物の中にも必ず本物がある」と信じたい思いから、彼女の思い出のカフェ「ナイト&デイ」で待ち続けます。但し、終盤に挿入されているその後の彼の人生からわかる通り、最後には老人ホームに入り孤独な生活をしており、クレアと再会は果たせなったことは明白です。

つまり本作は、「本物」の芸術に価値を見出してきた男が、晩年になって「贋作」の愛の価値を信じようとした物語。真実を見抜き孤独に過ごしてきた人生より、人生の晩年にみた虚構の愛情のほうが、ヴァ―ジルにとって大切なものだったのです。

美人画の中に描かれた美を愛でていれば傷つかずに済んだのに、それでも一人の女性を求めずにはいられなった、そんな人間の悲しい性を描いています。

そして、本作の真骨頂はミステリーのどんでん返しと、ヴァ―ジルの人生観の逆転が連動している点です。それはまるで騙し絵の様に、築き上げてきた世界観が覆った瞬間、彼のもつ人生観も同時に違った情景を映し出すのです。

 

◆余談

基本的にハリウッド映画大好き。

自分がイタリア映画と聞くと億劫になるのって、多分作品に関してのことだけじゃなく、イタリアという国自体への妙な憧れによるものなんでしょう。私の中でお洒落な国ナンバーワンがイタリアなので、なんというか渋谷の洋服店に入るときの場違い感に似ている気がする。その点、アメリカ映画だと馴染み深いため、それこそファストフード店に入るぐらいの気持ちで観れますね。ちなみに、邦画だと食べなれない和菓子のようなもので、かえって手が出しづらい心持になります。

『シング・ストリート 未来へのうた』原題『Sing Street』レビュー ~理想の実現、その限界点~

◆基本情報

・2016日本公開 

・監督 ジョン・カーニー 脚本 ジョン・カーニー

・出演 フェルディア・ウォルシュ=ビーロ、 ルーシー・ボーイントン、 ジャック・レイナ―、 ベン・キャロラン、 マーク・マッケンナ

 

◆あらすじ

コナー(フェルディア・ウォルシュ=ビーロ)は、不況によって家計が圧迫され、カトリック系の厳格な高校に転校することになった。そこではいじめっ子に目をつけられ、校長に強権的な仕打ちを受けていた。家族もバラバラになっており、鬱屈とした現実の中にいたコナーだったが、一人の女の子の気を引きたい思いから仲間を募りバンドを始めることになる。

 

◆レビュー

監督は音楽に深く携わってきた経験を活かして『ONCE ダブリンの街角で』『はじまりのうた』などの映画を作ってきました。本作も同じ路線で作られた青春物語となっており、紛れもない傑作と言えるでしょう。

正直な話をすると、私は音楽には疎くてほとんど聞きません。流行りの曲なんかもコンビニやらテレビのCMで流れているのを耳にする程度です。但し、映画に関連した音楽なら興味が出ます。それは「映画」という作品世界を構築するにあたり、音楽が切っても切り離せない関係にあるからです。

本作で流れる名曲のポップスたちは、映画に付随する演出装置の役割を超えて、映画に清涼な息を吹き込こんでいます。作中の彼らの抱える悶々とした霧を浄化する「力」を携えています。

 

アイルランドという国〉

まずは本作の舞台となるアイルランドについて簡単なおさらい。

人口は、およそ470万人、面積7万300平方メートルで北海道と同じぐらい、首都・ダブリン。以前はイギリスの支配下にあったが、独立戦争を経て現在は分離し独立しています。

畜産業が盛んに行われており、乳製品や牛肉を多く海外に輸出している。また、ジャガイモの栽培でも有名で、アイルランドの郷土料理にはジャガイモは欠かせない材料となっている様です。

経済面で言えば、アイルランドは1990年代にITの多大な恩恵により、急激な経済成長を遂げて、現在では非常に豊かな国の一つになっています。

本作の時代設定は1985年になっているため、国が豊かになる夜明け前と言ったところでしょうか。当時のアイルランドは経済不況に苦しんでおり失業率17%に象徴されている様に、行き場のない閉塞感に満ちていました。劇中の初めには、このような危機的状況が描かれ、主人公の家族もその影響をもろに受けています。

ちなみに以前レビューした『ブルックリン』もアイルランドで燻っていた少女がアメリカに渡るお話でした。

movielocallove.hatenablog.com

あの作品は1950年という設定だったので、本作とは時代的に少しズレは生じているものの、やはりアイルランドの停滞した状況は共通しています。

こうやって見ると、1990年代までのアイルランドの扱いが少しおざなりに思えます。どうも「何もない田舎」のステレオタイプとして扱われているようで少し不憫な気も……。

私の中では、牧羊とケルト文化が特徴で、自然と伝統の美しさをイメージしていました。兎角プラスの印象ばかり抱いていたのですが、それはあくまで観光で訪れるにあたっての話なのでしょう。この二作を見ると、その土地で暮らす人にとっては、なかなか切実な歴史を経てきたことが想像できます。

 

〈家族と学校、その閉塞感〉

主人公のコナーは15歳の高校生、とすれば彼を取り巻く世界は大きく二つしかありません。

一つは家族との関係について。前述した不況のため父親のロバート(エイダン・ギレン)は職を失っており、母親のペニー(マリア・ドイル・ケネディ)は浮気をしています。当然と言うべきか、夫婦仲は最悪でいつも喧嘩が絶えません。冒頭コナーが自室にいる場面、壁越しに両親の罵り合う声が聞こえてくるシーンはややありがちですが、彼の家庭環境をうまく切り取っています。子供にとって逃れられない存在である両親、そこの関係が不安定である状況のやるせなさが、コナーの悩みの一因となっています。

この両親ついて、共に悪人として描写されていません。父親が失業したのも、社会全体のうねりに逆らえなかった為です。母親の浮気も、夫が妻をないがしろにしてきたバックグラウンドが入っているため、むしろ同情的な目線で見れます。母親が夕日を眺めながら、新聞を読む後ろ姿は、物悲しく映る。

兄のブレンダンも、人生に挫折し立ち上がれないままでいます。彼の語る「ジェットエンジン」の例えから、この場所から這い上がれない者の苦痛がひしひしと伝わります。ブレンダンは、映画の中盤までコナーの音楽の師匠として頼れる存在だっただけに、余計胸を締め付けられる思いがします。

二つ目のコナーの世界は、学校です。厳格なカットリック系のシングストリート高校に転校した先で待っていたのは、強権的な校長といじめっ子のバリーでした。

コナーが茶色い革靴を履いてくると、校長は「黒い靴でなければならない」と頑として認めず、結局彼は裸足で歩くことになます。何より一番強烈だったのが、髪を染めてきたコナーに対し、校長は無理やり洗面台に彼の顔を押し付け、石鹸で髪を洗うシーンです。ここから、学校における校長の立ち位置、絶対に逆らえない権力者としての顔が伺えます。

バリーも、直接的な暴力を振るうのですが、中でもパチンコで脅すところが畏怖感を覚えます。しかし、このバリーは一方的な敵対者としてではなく、彼も劣悪な家庭環境に押しつぶされている子供の側面も、後に明かされます。

コナーを取り巻いているのは、自分一人の力ではどうすることもできない世界。80年代アイルランドの経済に呼応するように、彼の現実も先行きの見えない圧迫感に潰されかけているようです。

 

〈コナーにとっての音楽〉

コナーが音楽を始めたきっかけは、ラフィーナ(ルーシー・ボイルトン)の気を引くための嘘からでした。しかし、音楽をすることは、次第に別の意味合いを持つようになります。

劇中のコナーのセリフで「この場所から抜け出せないけど、うまくやっていく」というものがあります。このセリフに象徴されるように、彼にとっての音楽とは、どうにもならない現実を打開し、生きていくための拠り所になっているのです。

バンド仲間と創意工夫をしながら音楽を造り上げていく過程で、今まであった鬱屈が徐々に忘れられていくのが見てとてます。

両親が喧嘩しているとき、ブレンダンの部屋でレコードをかけることで辛い現実の音を文字通り打ち消しています。

個人的な体験なんですが、私自身も生きていくうえで辛い現実に直面することが多々あり、そんなとき、自分の支えになるのが映画だったり、文学だったりします。もっと言えば、このブログも自分の中にある何かを吐き出すことで、現実に立ち向かう原動力になっています。音楽にせよ、映画や本にせよ、芸術によって何かが救われる気持ちは同じです。そういった意味で、この作品に非常に感情移入してました。芸術による救済は、種類は様々ですが普遍的感覚なのではないでしょうか?

 

〈音楽によって願った理想〉

私がこの作品の中で最も心惹かれたのは、『Drive it Like You Store it』を演奏するシーンです。ノリの良い曲が放つ解放感と、映画としての物語上のメッセージ性とが混然一体となり、圧倒的な吸引力をもっています。

この曲のコンセプトとして『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でのプロムのダンスシーンを意識しています。あの映画では、タイムマシンを使って過去に遡り、両親に関わる過去を変えたことで、未来も変えていました。つまり、超科学的な力に頼り、本来ならば変えられない現実を変えていしまう物語。それと同じように、この『シング・ストリート』では、音楽のというイマジネーションの力によって、どうにもならない現実を変えることを願っています。

このシーンのコナーの空想では、すべてが思い通りになった理想的な幻影が映し出されます。

思いを寄せるラフィーナは美しくドレスアップした姿で現れ、モデルの夢を体現しています。両親は仲睦ましく手を取り合い踊り、兄のブレンダンは颯爽とバイクで現れます。あの横暴だった校長は打って変わって朗らかに音楽に身を委ねています。

この曲を演奏している間だけは、辛い現実は綺麗に消え去り、ただ幸せの絶頂のままでいられるのです。しかし、演奏が終われば元の現実に引き戻されてしまいます。

音楽の力では、現実を「すべて」覆したいというコナーの願いは叶いませんでした。

 

〈音楽によって変えられた現実〉

『Drive it Like You Store it』の演奏シーンでは、現実に影響を与えることが出来ませんでした。しかし、その代替としてプロムでの演奏シーンが入ります。

その中でも『Brown Shoes』の演奏シーンで、彼らは小さな革命を起こします。

バクスター校長に一矢報いることに成功し、自分たちの音楽をやりぬいたこの場面、カタルシスがあるのは確かですが、結局は現実は変えることはできていません。

あそこで、校長に恥をかかせたところで、プロムが終わればまたいつもの強権体制に戻るのは明白です。また、バンドメンバーにバリーを加えて、彼の救済もなされたように思えますが、家に帰れば劣悪な環境に逆戻りです。

コナーの両親の離婚も避けられないままですし、ブレンダンの現状もいきなり好転するものでもありません。

それでも、この作品が伝えたいのは、音楽によって変えることができる「ほんの僅かな何か」の大切さなのだと思います。

現実には変えることの出来ない強大な事柄ばかりです。それでも自分の自身が変われば、未来も少し変えることが出来るのかもしれないという、リアリズムに則った着地が力強くも心地よい。

現実における限界点を見極め、「すべて」は無理でも「ほんの少し」だったならと、未来へのポジティブな展望を抱かせるのが、この作品の主張だと言えます。

コナーとラフィーナは、渡った海の先でどのような人生を築くのでしょうか?

 

◆余談

映画のレビューを書く際に苦慮するのが、音楽の扱いについてです。なんか、音楽の良さを文章で表現するのって恐ろしく難解な作業に思えてならない。

だって音楽って感覚的に聞くものでしょう?リズムやら音程やらのどこが良いのか、言語化するってどうすればいいのか見当つかないんですよ。

ミュージカル映画とかで音楽の持つ意味合いが、映画のストーリーに絡んでくるとどうしたものかと思っちゃいます。今回の『シング・ストリート』でも、曲の持つメッセージ性にもっと切り込んだ内容にできれば理想的だったんですが、そうもいかず……。まあ、本作で描かれているように、「すべて」うまくやろうなんて無理な話なんでしょう。という風に、自分を慰めて締めくくります。