『雨の日は会えない、晴れの日は君を想う』原題『Demolition』レビュー ~ 邦題の示唆するもの メタファーに彩られた世界観~

◆基本情報

・2017年2月 日本公開 

・監督 ジャン=マルク・バレ 脚本 ブライアン・サイプ

・出演 ジェイク・ギレンホール、 ナオミ・ワッツ、 クリス・クーパー、 

 

◆あらすじ

ウォール街のエリートだったデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は、交通事故によって妻を亡くしてしまう。

しかし、妻が死んだにも関わらず、デイヴィスは一切涙を流すことはなかった。この出来事を機に、デイヴィスは自分が妻をないがしろにしていたことを自覚するようになった。

彼は苦悩していたところ、義父のアドバイスを受けて、様々なものを「解体」するようになる。

 

◆レビュー

掘り出し物の映画を見つけたとき、たまらなくうれしくなってしまう。それは、期待値の低さを上回ったお得感と言うよりも、人生どこが転機になるのかわからない楽しみと言ったほうが正確でしょう。

映画を観る時には、あまり先入観を持たないように心掛けています。というのも、一面的な見方をすると映画の解釈の幅を狭めてしまい、本当の意味で作品を楽しめなくなってしまうからです。とはいえ、理屈とおりにいかないのが人間というもの。なんとなくの印象で良いの悪いのと予想を立ててしまうこともしばしばです。

今回レビューする『雨の日は会えない、晴れの日は君を想う』について、正直どうかなと思いながら鑑賞し始めたのですが、見終わってその完成度の高さに唸りました。

作品の随所に散りばめられた隠喩の数々が、妻を亡くした男の繊細な心を揺さぶり、夫婦の間にあった淡い繋がりというテーマ性を浮かびあがらせることに成功しているのです。

 

〈揺れ動く感情表現〉

本作は、一風変わった物語設定になっています。

この手の作品の類型的な例として「最愛の妻を亡くして、そこからどのように立ち上がるのか」といった型があります。この型では、失意のどん底とそこを乗り越えた先の二つを二項対立的に捉えている為、シンプルな話運びになります。エンタメ作品としてとらえれば、起伏に富んだ、わかりやすい作品と言えるでしょう。

これらの作品と、本作が一線を画す点は、亡くなった相手を愛していたかどうか判然としないところにあります。無関心だった連れ合いを失った時、自分は何を感じ、どのように立ち上がればよいのか、がこの作品の大まかなテーマになっています。そもそも愛していたかどうかも定かではないがゆえに、悲しむべきなのかすらもわからない漠然とした心理がスタート地点となります。したがって、自身の中でなにが問題なのか模索する、繊細な心の動きが描かれます。

現実の問題に置き換えたときに、誰かの死が必ずしも悲しむべきものでないときがあるのも事実。夫婦の関係にしても、単純化した図式で割り切れない関係も案外多いのかもしれません。

上記の繊細な心理描写を可能にしているのは、ジェイク・ギレンホールの好演が大きいと思います。悲しみの代価として緩やかに心が崩れていく様を表情、仕草で巧妙に表現できており、彼の放つ男性性の中から滲む人間の脆さの演技が、本作の屋台骨であるのは間違いないと言えます。

ちなみに、近年のジェイク・ギレンホールの出演作『サウスポー』は、先に挙げた「最愛の妻を亡くして、そこからどのように立ち上がるのか」という筋書きそのままの作品になっているます。二作を対比して鑑賞してみるのも一興かもしれません。

他にも、映像的表現として、常に画面を固定せずにほんの少し揺らしている技法が用いています。常に不安定なカメラの視点を入れることで、主人公デイヴィスの揺れ動く心理描写を表現しています。

 

Demolition=解体〉

義父からのセリフの「心の修理は車の修理と同じ」が、主人公の行動の原点です。デイヴィスがどんな物も分解するようになったのは、言うまでもなく自分の心の内を解明したい欲求のメタファーになっています。また、彼の分解する癖の始まりが、冷蔵庫になっているのもポイントです。

劇中で描かれる分解は徐々にエスカレートしていき、破壊衝動にまで至ります。どうにもならない感情を何かぶつけ、もがく姿は痛々しく映りました。

デイヴィスが防弾チョッキを着て、自分を打たせるシーン。死を弄び、自分を傷つけなければ生を実感できない所まで追い詰められており、これも一種の破壊衝動なのだと言えます。

 

〈妻からのメタファー〉

表面上、デイヴィスは妻に無関心であったし、妻も他の男と浮気をして妊娠、中絶

までしていたことから、この夫婦の関係は破綻していたように見えます。しかし、本作の終盤で明かされるメモの意味に気が付いた時、夫婦の間にあった仄かな愛情が見えてきます。

車の中で見つけた「雨の日は会えない、晴れた日に思い出す」とのメモは妻が残した物。そして、このメタファーを読み解く上で重要なのは、映画冒頭であった冷蔵庫の水漏れの件です。冷蔵庫の水漏れ=雨が降っている状態の事です。冷蔵庫の水漏れについては、妻が以前から相談していたことであり、それをいつまで経っても放置しているのは、デイヴィスが妻に無関心であることの象徴です。つまり、「雨の日は会えない、晴れた日に思い出す」とは、冷蔵庫の水漏れが直っていない状態=私に関心がないあなたとは分かり合えない。でも、冷蔵庫の修理を終えた状態=あなたが私の話を聞き、関心を示すならば、出会った頃を思い出す。という、妻からの愛情のサインでした。

また、メモを発見し、事故の直前を思い出す瞬間「俺の椅子じゃねから関係ねぇ」という妻のセリフもフラッシュバックします。これは、二人が出会ったパーティーの時に、偶然テレビで流れていたトカゲのアニメーションのセリフであり、二人が出会った頃の馴れ初めを象徴するセリフと言えます。これらが示唆するのは、妻は夫との思い出を大切に持ち続け、出会った頃の関係に戻りたかったことです。

メタファーの先に隠された真意。デイヴィスがなんの関心も持たなかった灰色の関係の中にも、本当は妻からの愛情の片鱗があったのだと言えます。

 

〈メリーゴーランドに込められた思い〉

ラストシーンに登場するメリーゴーランドは、誰からも見向きもされず解体待ちであったことが、中盤の会話で明かされています。メリーゴーランドは、デイヴィスに振り向いてもらえなかったジュリアのメタファーです。

そのメリーゴーランドを、妻が好きだった海の浜辺に建てることは、ジュリアとの思い出の復元であるといえます。

心の解体を続けていたデイヴィスでいたが、葛藤の先に辿り着いた答えは、壊すのではなく修復することです。無関心だった過去の中に、かけがえのないものを見つけた彼は、もはや何も解体する必要がなくなりました。

本作は、身近にいる人の大切さを説いた作品。いつも当たり前のようにあるものは、近すぎてその重要性に気が付きづらいのもです。失って後悔した感情の量だけ、過去に無自覚に享受していた愛情の価値を再確認することが出来ます。

この後悔の物語から伝わってくるメッセージは、翻って今現在、目の前にある何かの儚さと美しさを際立たせています。もし、この映画を観た人がいるならば、その瞬間、隣にいる大切な人のことを考えてみるほうが良いかもしれません。人生において、その繋がりがいつ失われるか、わからないのですから。

 

〈私的な話〉

ジェイク・ギレンホールの出演作結構観てるんですよね。しかも、それは意識的にと言うよりも、偶々鑑賞してきたなかのに多くあったといった感じです。あるいは、彼の出演作が多すぎるあまり、その遭遇率が高いだけとの見方もできますが……。今回レビューを書くにあたり、ざっと調べたのですが、この人凄い数の作品に出てるよ。結構好きな俳優なので出演作を追おうかと思ったのですが、流石に全部は断念しました。またいつか縁があれば、スクリーン上でお目にかかれると思います。

『鑑定士と顔のない依頼人』原題『LA MIGLIORE OFFERTA』レビュー ~真贋の選択 技巧の影に隠された意図~

 ◆基本情報

・2013年12月 日本公開 

・監督 ジュゼッペ・トルナトーレ 脚本 ジュゼッペ・トルナトーレ

・出演  ジェフリー・ラッシュ、 シルヴィア・フークス、 ジム・スタージェス、 ドナルド・サザーランド

 

◆あらすじ

凄腕の美術品鑑定士として知られているヴァ―ジル(ジェフリー・ラッシュ)は、奇妙な依頼を受ける。その相手は電話越しでしか依頼内容を伝えず、一向に姿を現さない。初めこそ苛立ちを覚えたヴァ―ジルだったが、謎めいた依頼人に好奇心が芽生え始める。その心情は徐々に恋心へと変貌を遂げることになる。

 

◆レビュー

今回レビューするのは、イタリアの名監督として知られるジュゼッペ・トルナトーレの作品『鑑定士と顔のない依頼人』です。とは言ったものの、私の不勉強で彼の作品はあまり観たことがないのが現状です。代表作である『ニュー・シネマ・パラダイス』だけは、10年ほど前に鑑賞したのですが、イマイチ記憶に残っていません。当時は全然共感できなかった印象だけはあるため、本作も苦手意識があったのですが、蓋を開けてみればそんな先入観など消え去りました。

劇中に登場する優美巧妙とした美術品の数々がそうであるように、本作は散らばまられた謎に彩られ、その点と点が流麗な曲線を描き、非常に精密な絵画のような仕上がりになっています。

なお、今回はミステリーというジャンルの特性上、ネタバレが気になる方も多いかと思われます。しかし、毎回読んでくれている方なら既にお気づきでしょうが、このブログのレビューは常にネタバレ全開で書いています。その辺の配慮は一切いたしませんので、ご了承ください。

まだ観てない方、もし可能ならばTSUTAYAかどこかでレンタルして、鑑賞の後このレビューを読んでいただければありがたいのですが、厚かましいでしょうか?

 

〈高雅な世界観〉

なんといっても本作の目玉の一つは、その世界観。美術品それぞれの放つ美麗な造形が、そのまま映画の外形の構築にも繋がります。芸術作品への視点、鑑定士ヴァ―ジルの口から語られる文学的ですらある批評の言葉はインテリジェンスの匂いを発し、ときに官能性をも滲ませます。

残念ながら、美術品周辺の専門知識がない私には、各々の持つ芸術的価値を測ることはできませんが、映画内における説得力を担保するには十分な情報が詰まっているのだといえます。本作の様に、ある特定の分野や職業を題材にするとき絶対的に必要なのは、実際の分野におけるディティールを追及できるのかという点です。その積み重ねが、作品全体の出来如何を左右します。

また、美術品のに関わる真贋を巡るやり取りが、後述する本作のテーマと繋がっているのが面白い。洒落た世界観を、ファッション的に楽しむだけに留めず、論理的な意味合いの下支えに役立てたところが、傑作足りえた所以です。

 

〈ヴァ―ジル、クレアの恋愛模様

初めに提示されるヴァ―ジルという男の人物像は、端的に言えば堅物、偏屈、傲慢といったところでしょうか。芸術への圧倒的な知識と、鋭い感性に裏打ちされた自負が肥大化し、周囲の人間にも尊大な態度をとります。長年かけて行った偉業が、彼の持つ人生観を頑ななまでに固定しているのです。

また、ヴァ―ジルは恋愛に関してはかなり奥手です。修理技師のロバート(ジム・スタージェス)がプレイボーイとして描かれているのと対比させてあります。

その強固な人生観を揺るがす人物が、本作の謎の依頼人クレア(シルヴィア・フークス)です。

ヴァ―ジルが彼女に惹かれたのは、そのミステリアスな存在感が大きく影響します。クレアは人間のもつ、知りたいという欲求を刺激し、妖艶な花の香りの様に誘惑します。美術品の奥に潜む価値を探求してきたヴァ―ジルの本質が、クレアの持つ魅力を見逃せなかったのは当然と言えます。そして、そのヴェールの裏には、ヴァ―ジルが持つどの美人画よりも美しい女性が隠れています。

他にもヴァ―ジルが惹かれた理由を挙げれば、クレアの持つ精神の歪さが重要です。彼女は広場恐怖症によって長年屋敷から出られないと語ります。クレアの閉鎖的な人生は、ヴァ―ジルの持つ人生観に通じるところがあり、その類似が彼を恋へとのめり込ませたのでしょう。ヴァ―ジルがクレアを外の世界に連れ出そうとするのは、彼も現状の自分の殻を破り、凝り固まった人生観を壊したい欲求に駆られていたことが想像できます。クレアの広場恐怖症とヴァ―ジルの潔癖症は同一線上の問題として位置づけられています。

ヴァ―ジルの変化を表す描写はいくつかあり、例えば髪の毛について。元々身だしなみのこだわりで髪を黒く染めていたのが、クレアとのやり取りに影響され白髪に戻す場面はわかりやすいでしょう。また、携帯を持たない主義も変えています。彼女と少しでも話したい、そんな心の動きは、初めて恋をした少年のようでした。

クレアがいなくなった展開のとき、競売の最中にも関わらずクレアが見つかったのかを確かめるため電話をし、失態を演じる様は滑稽です。彼の中で、長年続けてきた競売の仕事より、一人の女性の方が優先されていることがわかります。

 

〈ミステリー作品として〉

この作品のラストで明かされるのは、壮大な詐欺の物語です。

終盤まで描かれてきたヴァ―ジルとクレアを巡る恋の物語は、ロバートの筋書きによるものでした。ロバート、ビリー、クレア、サラ、ランバートは全員グルで、すべてはヴァ―ジルの自宅にコレクションされている大量の美人画を盗み出すための計画。その目的ために、ヴァ―ジルがクレアを追い求めるよう仕組まれていたのです。

そのオチを引き立てるために、劇中には多くの伏線が隠されていました。

まずは、バーにいる小人症の女性。彼女が数字に関して異常な記憶力を持っているのが重要な役割を担っています。クレアが失踪した展開の際に、ヴァ―ジルがバーで「あの屋敷から出てきた女性を見なかったか」と聞く場面があるのですが、その時小人症の女性は「231」と呟いています。後に明かされますが、クレアは広場恐怖症などではないため、自由に屋敷を出入りしていました。その回数こそがまさしく「231」です。また、実は彼女こそ屋敷の本当の持ち主である「クレア」だったことが明かされ、この本物のクレアの口から事の顛末が語られるのが憎い演出です。更に言えば、本物のクレアの存在自体が、詐欺を露見するヒントになりえるのに、ロバート達は特に彼女の存在を隠そうとはしません。

他にも、黒幕であるロバートを一度疑うよう、サラがヴァ―ジルを唆すのも、観客へのミスリードと、ロバートの心を弄ぶ効果を発揮します。

オチの際、美人画のある隠し部屋でヴァ―ジルをあざ笑うオートマタを、本人の目の前で組みあげるのも何とも大胆不敵。

このように大それた詐欺を働いているのに、あえてヴァ―ジルの目の前にヒントを提示するのは、ロバートらが一連の詐欺を芸術として捉えているためです。劇中のやりとりであるように、贋作者は必ず作品にサインを残すものです。ヴァ―ジルの信じ込んだ虚構の物語を、ロバートらは、自分たちが造り上げた作品であると誇示せずにはいられなかったのです。

踊り子の絵にサインを残していたのも同様の理由からといえます。

 

実の所、本作におけるどんでん返しのネタ自体はさほど新鮮なものと言えません。しかし、演出や丁寧に作り込まれた世界観によって、うまくお話として昇華できているのだと思います。ヴァ―ジルの恋心に感情移入し、甘美な物語に没入することで、謎の全容を予測することを忘れてしまいます。もっとかみ砕けば、この物語を愛おしく思えたからこそ、ミステリーとしての成功もなし得たのだと言えます。

 

〈贋作の価値〉

上記の通り、ミステリーとして十分な水準に達しているのは間違いありませんが、本作の真価は他にあります。

初めに提示された頑なだったヴァ―ジルの人生観は、クレアとの恋によって変貌を遂げ、実際の女性を愛せず絵画の中の美に愛を求めていた男が、痛みを伴う血肉の通った恋に魅了されていきます。その過程で鑑定士としての自分、つまりは本物の芸術に価値を見出すことに捧げてきた人生を放棄することも決意します。しかし、ヴァ―ジルが人生を投げ売ってまで得ようとしたクレアとの愛はすべて虚構でした。

本心では詐欺だとわかっていてもクレアとの愛を信じたい「いかなる偽物の中にも必ず本物がある」と信じたい思いから、彼女の思い出のカフェ「ナイト&デイ」で待ち続けます。但し、終盤に挿入されているその後の彼の人生からわかる通り、最後には老人ホームに入り孤独な生活をしており、クレアと再会は果たせなったことは明白です。

つまり本作は、「本物」の芸術に価値を見出してきた男が、晩年になって「贋作」の愛の価値を信じようとした物語。真実を見抜き孤独に過ごしてきた人生より、人生の晩年にみた虚構の愛情のほうが、ヴァ―ジルにとって大切なものだったのです。

美人画の中に描かれた美を愛でていれば傷つかずに済んだのに、それでも一人の女性を求めずにはいられなった、そんな人間の悲しい性を描いています。

そして、本作の真骨頂はミステリーのどんでん返しと、ヴァ―ジルの人生観の逆転が連動している点です。それはまるで騙し絵の様に、築き上げてきた世界観が覆った瞬間、彼のもつ人生観も同時に違った情景を映し出すのです。

 

〈私的な話〉

基本的にハリウッド映画大好き。

自分がイタリア映画と聞くと億劫になるのって、多分作品に関してのことだけじゃなく、イタリアという国自体への妙な憧れによるものなんでしょう。私の中でお洒落な国ナンバーワンがイタリアなので、なんというか渋谷の洋服店に入るときの場違い感に似ている気がする。その点、アメリカ映画だと馴染み深いため、それこそファストフード店に入るぐらいの気持ちで観れますね。ちなみに、邦画だと食べなれない和菓子のようなもので、かえって手が出しづらい心持になります。

『シング・ストリート 未来へのうた』原題『Sing Street』レビュー ~理想の実現、その限界点~

◆基本情報

・2016日本公開 

・監督 ジョン・カーニー 脚本 ジョン・カーニー

・出演 フェルディア・ウォルシュ=ビーロ、 ルーシー・ボーイントン、 ジャック・レイナ―、 ベン・キャロラン、 マーク・マッケンナ

 

◆あらすじ

コナー(フェルディア・ウォルシュ=ビーロ)は、不況によって家計が圧迫され、カトリック系の厳格な高校に転校することになった。そこではいじめっ子に目をつけられ、校長に強権的な仕打ちを受けていた。家族もバラバラになっており、鬱屈とした現実の中にいたコナーだったが、一人の女の子の気を引きたい思いから仲間を募りバンドを始めることになる。

 

◆レビュー

監督は音楽に深く携わってきた経験を活かして『ONCE ダブリンの街角で』『はじまりのうた』などの映画を作ってきました。本作も同じ路線で作られた青春物語となっており、紛れもない傑作と言えるでしょう。

正直な話をすると、私は音楽には疎くてほとんど聞きません。流行りの曲なんかもコンビニやらテレビのCMで流れているのを耳にする程度です。但し、映画に関連した音楽なら興味が出ます。それは「映画」という作品世界を構築するにあたり、音楽が切っても切り離せない関係にあるからです。

本作で流れる名曲のポップスたちは、映画に付随する演出装置の役割を超えて、映画に清涼な息を吹き込こんでいます。作中の彼らの抱える悶々とした霧を浄化する「力」を携えているのです。

 

アイルランドという国〉

まずは本作の舞台となるアイルランドについて簡単なおさらい。

人口は、およそ470万人、面積7万300平方メートルで北海道と同じぐらい、首都・ダブリン。以前はイギリスの支配下にあったが、独立戦争を経て現在は分離し独立しています。

畜産業が盛んに行われており、乳製品や牛肉を多く海外に輸出している。また、ジャガイモの栽培でも有名で、アイルランドの郷土料理にはジャガイモは欠かせない材料となっている様です。

経済面で言えば、アイルランドは1990年代にITの多大な恩恵により、急激な経済成長を遂げて、現在では非常に豊かな国の一つになっています。

本作の時代設定は1985年になっているため、国が豊かになる夜明け前と言ったところでしょうか。当時のアイルランドは経済不況に苦しんでおり失業率17%に象徴されている様に、行き場のない閉塞感に満ちていました。劇中の初めには、このような危機的状況が描かれ、主人公の家族もその影響をもろに受けています。

ちなみに以前レビューした『ブルックリン』もアイルランドで燻っていた少女がアメリカに渡るお話でした。

movielocallove.hatenablog.com

あの作品は1950年という設定だったので、本作とは時代的に少しズレは生じているものの、やはりアイルランドの停滞した状況は共通しています。

こうやって見ると、1990年代までのアイルランドの扱いが少しおざなりに思えます。どうも「何もない田舎」のステレオタイプとして扱われているようで少し不憫な気も……。

私の中では、牧羊とケルト文化が特徴で、自然と伝統の美しさをイメージしていました。兎角プラスの印象ばかり抱いていたのですが、それはあくまで観光で訪れるにあたっての話なのでしょう。この二作を見ると、その土地で暮らす人にとっては、なかなか切実な歴史を経てきたことが想像できます。

 

〈家族と学校、その閉塞感〉

主人公のコナーは15歳の高校生、とすれば彼を取り巻く世界は大きく二つしかありません。

一つは家族との関係について。前述した不況のため父親のロバート(エイダン・ギレン)は職を失っており、母親のペニー(マリア・ドイル・ケネディ)は浮気をしています。当然と言うべきか、夫婦仲は最悪でいつも喧嘩が絶えません。冒頭コナーが自室にいる場面、壁越しに両親の罵り合う声が聞こえてくるシーンはややありがちですが、彼の家庭環境をうまく切り取っています。子供にとって逃れられない存在である両親、そこの関係が不安定である状況のやるせなさが、コナーの悩みの一因となっています。

この両親ついて、共に悪人として描写されていません。父親が失業したのも、社会全体のうねりに逆らえなかった為です。母親の浮気も、夫が妻をないがしろにしてきたバックグラウンドが入っているため、むしろ同情的な目線で見れます。母親が夕日を眺めながら、新聞を読む後ろ姿は、物悲しく映る。

兄のブレンダンも、人生に挫折し立ち上がれないままでいます。彼の語る「ジェットエンジン」の例えから、この場所から這い上がれない者の苦痛がひしひしと伝わります。ブレンダンは、映画の中盤までコナーの音楽の師匠として頼れる存在だっただけに、余計胸を締め付けられる思いがします。

二つ目のコナーの世界は、学校です。厳格なカットリック系のシングストリート高校に転校した先で待っていたのは、強権的な校長といじめっ子のバリーでした。

コナーが茶色い革靴を履いてくると、校長は「黒い靴でなければならない」と頑として認めず、結局彼は裸足で歩くことになます。何より一番強烈だったのが、髪を染めてきたコナーに対し、校長は無理やり洗面台に彼の顔を押し付け、石鹸で髪を洗うシーンです。ここから、学校における校長の立ち位置、絶対に逆らえない権力者としての顔が伺えます。

バリーも、直接的な暴力を振るうのですが、中でもパチンコで脅すところが畏怖感を覚えます。しかし、このバリーは一方的な敵対者としてではなく、彼も劣悪な家庭環境に押しつぶされている子供の側面も、後に明かされます。

コナーを取り巻いているのは、自分一人の力ではどうすることもできない世界。80年代アイルランドの経済に呼応するように、彼の現実も先行きの見えない圧迫感に潰されかけているようです。

 

〈コナーにとっての音楽〉

コナーが音楽を始めたきっかけは、ラフィーナ(ルーシー・ボイルトン)の気を引くための嘘からでした。しかし、音楽をすることは、次第に別の意味合いを持つようになります。

劇中のコナーのセリフで「この場所から抜け出せないけど、うまくやっていく」というものがあります。このセリフに象徴されるように、彼にとっての音楽とは、どうにもならない現実を打開し、生きていくための拠り所になっているのです。

バンド仲間と創意工夫をしながら音楽を造り上げていく過程で、今まであった鬱屈が徐々に忘れられていくのが見てとてます。

両親が喧嘩しているとき、ブレンダンの部屋でレコードをかけることで辛い現実の音を文字通り打ち消しています。

個人的な体験なんですが、私自身も生きていくうえで辛い現実に直面することが多々あり、そんなとき、自分の支えになるのが映画だったり、文学だったりします。もっと言えば、このブログも自分の中にある何かを吐き出すことで、現実に立ち向かう原動力になっています。音楽にせよ、映画や本にせよ、芸術によって何かが救われる気持ちは同じです。そういった意味で、この作品に非常に感情移入してました。芸術による救済は、種類は様々ですが普遍的感覚なのではないでしょうか?

 

〈音楽によって願った理想〉

私がこの作品の中で最も心惹かれたのは、『Drive it Like You Store it』を演奏するシーンです。ノリの良い曲が放つ解放感と、映画としての物語上のメッセージ性とが混然一体となり、圧倒的な吸引力をもっています。

この曲のコンセプトとして『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でのプロムのダンスシーンを意識しています。あの映画では、タイムマシンを使って過去に遡り、両親に関わる過去を変えたことで、未来も変えていました。つまり、超科学的な力に頼り、本来ならば変えられない現実を変えていしまう物語。それと同じように、この『シング・ストリート』では、音楽のというイマジネーションの力によって、どうにもならない現実を変えることを願っています。

このシーンのコナーの空想では、すべてが思い通りになった理想的な幻影が映し出されます。

思いを寄せるラフィーナは美しくドレスアップした姿で現れ、モデルの夢を体現しています。両親は仲睦ましく手を取り合い踊り、兄のブレンダンは颯爽とバイクで現れます。あの横暴だった校長は打って変わって朗らかに音楽に身を委ねています。

この曲を演奏している間だけは、辛い現実は綺麗に消え去り、ただ幸せの絶頂のままでいられるのです。しかし、演奏が終われば元の現実に引き戻されてしまいます。

音楽の力では、現実を「すべて」覆したいというコナーの願いは叶いませんでした。

 

〈音楽によって変えられた現実〉

『Drive it Like You Store it』の演奏シーンでは、現実に影響を与えることが出来ませんでした。しかし、その代替としてプロムでの演奏シーンが入ります。

その中でも『Brown Shoes』の演奏シーンで、彼らは小さな革命を起こします。

バクスター校長に一矢報いることに成功し、自分たちの音楽をやりぬいたこの場面、カタルシスがあるのは確かですが、結局は現実は変えることはできていません。

あそこで、校長に恥をかかせたところで、プロムが終わればまたいつもの強権体制に戻るのは明白です。また、バンドメンバーにバリーを加えて、彼の救済もなされたように思えますが、家に帰れば劣悪な環境に逆戻りです。

コナーの両親の離婚も避けられないままですし、ブレンダンの現状もいきなり好転するものでもありません。

それでも、この作品が伝えたいのは、音楽によって変えることができる「ほんの僅かな何か」の大切さなのだと思います。

現実には変えることの出来ない強大な事柄ばかりです。それでも自分の自身が変われば、未来も少し変えることが出来るのかもしれないという、リアリズムに則った着地が力強くも心地よい。

現実における限界点を見極め、「すべて」は無理でも「ほんの少し」だったならと、未来へのポジティブな展望を抱かせるのが、この作品の主張だと言えます。

コナーとラフィーナは、渡った海の先でどのような人生を築くのでしょうか?

 

◆私的な話

映画のレビューを書く際に苦慮するのが、音楽の扱いについてです。なんか、音楽の良さを文章で表現するのって恐ろしく難解な作業に思えてならない。

だって音楽って感覚的に聞くものでしょう?リズムやら音程やらのどこが良いのか、言語化するってどうすればいいのか見当つかないんですよ。

ミュージカル映画とかで音楽の持つ意味合いが、映画のストーリーに絡んでくるとどうしたものかと思っちゃいます。今回の『シング・ストリート』でも、曲の持つメッセージ性にもっと切り込んだ内容にできれば理想的だったんですが、そうもいかず……。まあ、本作で描かれているように、「すべて」うまくやろうなんて無理な話なんでしょう。という風に、自分を慰めて締めくくります。

『17歳のカルテ』原題『Girl,Interrupted』レビュー ~彼女と世界の境界線~

◆基本情報

・2000年日本公開 

・監督 ジェームズ・マンゴールド  脚本 ジェームズ・マンゴールド、 リサ・ルーマー、 アンナ・ハミルトン・フェラン 

・出演 ウィノナ・ライダー、 アンジェリーナ・ジョリー、 ウーピー・ゴールドバーグ

 

◆あらすじ

18歳になり高校卒業を迎えたスザンナ(ウィノナ・ライダー)は、アスピリンを多量摂取して自殺未遂をした。彼女の精神的な不安定さを危惧した両親は、精神科の病院に入るよう勧める。

スザンナは病院の中で、同じように心因的な病気に苦しむ女性たちと生活をともにし、その中でも患者達のリーダー、リサ(アンジェリーナ・ジョリー)と親交を深めるようになる。

 

◆レビュー

ジェームズ・マンゴールド監督の作品はいくつか鑑賞しており、『アイデンティティ』『ナイト&デイ』なんかはお気に入りです。最近では娯楽性重視の大作が目立っていますが、それ以前はヒューマン映画を多く手掛けていました。今回レビューする『17歳のカルテ』も、その中の一本で、精神的に不安定な少女の繊細な心理を切り取った作品になっています。

なお、本作はスザンナ・ケイセンの『思春期病棟の少女たち(日本語題)』という自伝をベースにしています。

 

〈彼女らの抱えるもの〉

本作の主人公スザンナは境界線パーソナリティー障害をに苦しんでいます。ざっと調べたところ、この病気は二極化した感情に揺れ動き、社会的な関係性に支障をきたすものだそうです。また、リストカットや薬物、性行為などで自分を傷つけることも症状の一つとされています。

劇中のスザンナの行動はまさにこの症状の通りで、入院のきっかけの自殺未遂や、知人の大学教授、パーティで知り合った同級生の兄、病院の男性看護師などとの衝動的な性行為、抑鬱な感情などが描かれます。これらのシーンは沈んだ色調の絵造り、音楽の演出が痛々しく、自伝の持ち味であるリアリティを遺憾なく映画で表現できていると言えます。

また、スザンナが両親同席でカウンセリングを受けるシーンで、父は世間体ばかりを気にして、母は悲しむばかりと、彼女のことを本当は見ていないことがわかります。

スザンナが知り合ったばかりの男性とセックスを終えた後、自身の悲壮な気持ちを告白するのですが男は「そんな話やめよう」と言います。彼女の複雑な胸の内は病院の外の人間、つまりは普通の人々からは理解されていません。

劇中、スザンナは「死のうとしたんじゃない。くだらないものを終わらせようとしたんだ」と語りますが、このセリフから鬱屈とした彼女の現状が推し量れます。彼女は死にたいのではなく、今、目の前にある人生にうまく折り合いがつかないだけなのです。その言葉は、本当はこの現実、世界にどうしても溶け込み、生きていきたいという強い気持ちの裏返しだとも言えます。

この作品で大きな存在感を放つのが、アンジェリーナ・ジョリー演じるリサというキャラクターです。非常にエキセントリックな性格で、暴力的な行動をしたかと思うと、明るく看護婦や患者と談笑する姿が描かれます。彼女のもつ雰囲気は結果的には周囲を魅了しており、他者を支配する力に長けています。

患者みんなで、外出してアイスクリームを食べに行くシーン。スザンナが以前不倫してしまった大学教授の奥さんと出くわし、リサがスザンナを庇うように、奥さんを罵倒したのは印象的。また、リサが患者達を先導する形で、夜中の病院内を徘徊する場面でも、リサの持つ他人を引き付ける力が良くわかります。

物語上にうまいと思うのは、リサを単純に暴力的な陰の性質のみで描いていないことです。上記のようなシーンの積み重ねでリサの陽の部分を見せ、彼女の人物造形に奥行きを持たせています。通常の映画でもそうですが、本作の様に精神的な病気を扱った作品だと、人間の性格の矛盾や多面性に踏み込んだ描写が一層必要となります。

ともあれ、映画の中盤まではリサの善良性が垣間見えます。この印象は、我々観客の視点と主人公のスザンナが共有してもつ感覚となっているのも、後々ポイントとなっています。

他、拒食症と父親との関係に悩むデイジー、虚言癖のあるジェイミー、顔に火傷を負ったポリーなど、様々な問題を抱えた女性たちが登場します。

画面からは薄暗い雰囲気が一貫して漂ってはいる反面で、彼女のたちがどこか楽し気な表情を浮べているのは、同じような境遇にある者たちの共感があったからです。本作ではこの世界から疎外され、病院という隔絶された空間にしか居場所を見出せない女性たちの姿が描かれます。

 

〈1960年代アメリカの情勢〉

この作品の時代背景は1960年代となっており、劇中の随所にその要素がちりばめられています。

スザンナと関係を待った髭面の男が徴兵されるとの話題からはベトナム反戦運動、病院内のテレビで放送されているキング牧師の死亡ニュースからは公民権運動の気運が伺えます。

そして、序盤にスザンナの不倫相手の奥さんや、高校の教師から語られるように、女性解放運動の兆候も見て取れます。

当時のアメリカは激動の時代と言え、社会のあらゆる面で分裂し、対立していました。ベトナム戦争の長期化による財政悪化、黒人差別撤廃を巡る暴動の発生など、激しく変遷を遂げる中で何が答えか模索していた情勢であると言えます。

本作で秀逸なのは、この時代性をスザンナをはじめとした女性患者たちの抱える問題に反映させた造りになっていることです。要するに、激動する世界の中で翻弄され、答えの見えない人間の象徴をして彼女らの存在が位置付られているのです。思春期の感受性豊かな女性たちにとって、精神的な病気になるというのは、病院の外の矛盾した辛い現実から逃れるための自己防衛だといえます。

特にスザンナの抱える境界性パーソナリティー障害は、最も顕著なメタファーで、相反する感情を自身の中で処理できない苦しみは、当時のアメリカ社会が抱える分裂の構図そのものです。

また女性解放運動という女性が外の社会に進出する動向と、スザンナたちが精神病院の中から外へ解放されたいという願いも重なり合わせてあります。その点に関しては、黒人女性が優遇されない中で女優として活躍してきたウーピー・ゴールドバーグが出演していることからも本作の姿勢がよく伝わります。

時代の動きを映画に反映させる構成は名作『フォレスト・ガンプ』でも使われていましたが、本作では、特にジェンダー的視点に重きを置かれているのが特色です。

 

〈精神的な病気への視線〉

中盤まで陽的な側面が際立っていたリサでしたが、デイジーに対する罵詈雑言によって陰の顔が表面化しました。デイジーの心の内を読み、追い詰める様は異常に攻撃的。更には、デイジーが自殺したのを見ても「いずれこいつはやった」と言い放つところで、決定的に異質な存在になっています。中盤まで善良性を見せていただけに余計にショッキングです。

そのリサとスザンナとの対立がラストに設けられていますが、こここそスザンナの心の解放が象徴されている所です。

リサが何年も病院の中で過ごしてきたのは外の世界を恐れてきたため。自分と同じような崖っぷちの人間たちを支配することでしか、安らぎを得られなかったからです。劇中に描かれていた少女たちの連帯も同じように、崖っぷちだからこそのものでした。

スザンナがリサを打ち負かせたのは、自分の病気を理解するよう努め、病院という箱庭から自立する強さを獲得したから。その自立の原動力になったのは物書きになりたいという夢と、自分の中にある感情を日記に吐き出すことによる癒しです。

矛盾して嘘ばかりの外の世界に立ち向かうスザンナの姿は力強く、凛々しい。スザンナは、入院するときと退院するときタクシーに乗るのですが、それぞれの顔つきは見違えるように違います。

                                                                                     

この作品が素晴らしいのは、スザンナが病院の中の人たちと決別して終わらない所です。

スザンナが病院を旅経つとき、ジェイミーやポリー、そしてリサとも和解し、別れを告げています。この結末こそスザンナの答えそのものだといえます。

病気の彼女らを否定しないことは病気だったスザンナ自身を否定していないことになります。そこにあるのは、精神的な病気に対しての、優しい視点です。病院の内側の人たちは「異常」、病院の外の人たちは「普通」などと定義するのではなく、両者の間には本当は境界線などないのだと訴えかけているようです。そして、スザンナも二極化された自身の感情、両方ひっくるめて自分なのだと受け入れることが出来ました。それは、外の矛盾した世界と自分との境界線をも取っ払ったことを意味しているのです。

スザンナたちの再会を想像させるラストシーンでは、彼女らの幸せそうな表情目に浮かびます。そう思えるほど映画の世界に引き込まれました。

 

精神的な病気で苦しんでいる人にとって、この作品の持つ暖かいメッセージはきっと一抹の安らぎになるのではないでしょうか?是非鑑賞してみてください。

 

◆私的な話

ジェームズ・マンゴールド監督の作品かなり好きなんです。特に『アイデンティティ』は、一時期どんでん返し映画に嵌っていた頃に出会った忘れられない一作。膝を叩くような意外な落ちもさることながら、設定と雰囲気が抜群に好みです。雨の中、偶然モーテルに居合わせた男女。そして一人また一人と姿を消していくという展開。がっつりストライクゾーンに入りました。

彼の作品はいくつか観ていないものもあるので、また探してみますかね。

『ヴィジット』原題『The visit』レビュー ~特効薬の力 ホラーがもたらす効用~

  ◆基本情報

・2015年日本公開 

・監督 M・ナイト・シャマラン  脚本 M・ナイト・シャマラン

・出演 オリヴィア・デヨング、 エド・オクセンボウルド、 ディアナ・ダナガン、 ピーター・マクロビー、 キャサリン・ハーン 

 

◆あらすじ

ベッカ(オリヴィア・デヨング)とタイラーと(エド・オクセンボウルド)は、疎遠になっていた祖父母の家を訪ねる。シングルマザーの母親は家出同然で駆け落ちした過去があり、そのことから祖父母と確執ができていた。

初めて会う祖父母と穏やかな休日を過ごすはずが、次第に老人二人の持つ異常性が明らかになっていく。

 

◆レビュー

この作品が劇場公開されていた当時の予告CMを良く覚えています。初めこそ、感動のホームドラマの雰囲気にしておき、いきなりホラー映画としての色を前面に押し出す演出をとっていました。あのCMは日本公開用に作られたものでしょうが、ある意味この作品の特徴をうまく捉えた編集だったのだと言えます。

 

〈分類不明なジャンル〉

本作は大別すればホラー映画であり、当然純粋に怖いシーンはいくつもあります。

タイラーが隠しカメラを仕掛け、それを老婆が見つけるシーン。この手の映画としてはオーソドックの範疇を出ませんが、少なくともホラー慣れしていない人間には十分な迫力でしょう(かくいう私がそう思った)。また、終盤近くにおけるどんでん返しは既視感がありつつも、鳥肌が立つような静かな恐怖を演出できていたと思います。

他、木に吊るされたステイシーが一瞬だけ映り込むシーンは『ブレアウィッチプロジェクト』のラストシーンを彷彿とさせます。『ブレアウィッチプロジェクト』と言えば、本作は実際のホームビデオの映像視点で撮影されているpov方式を採用していおり、少し意識したのかもしれません。

上記のところだけを見るとよくあるホラー作品に留まりますが、本作は怖いシーンでも笑えたり、悲しかったりと他の感情をも刺激する要素が入っています。

例えば、ベッカとタイラーが床下でかくれんぼするシーン。老婆が四つん這いになって追いかけてくる所は最も怖い場面であることは請け合いです。しかし、外の明るみに出ると途端に恐怖感は霧散し、老婆のスカートがめくれて半分尻を出している後姿でシュールなコミカルさが一気に込み上げます。また、タイラーと老婆がゲームをしていたシーンで、ビスケットを貪り食っていた老婆がカメラ目線で叫ぶところも、ストーリーの進行に反してなぜだか笑えてしまいます。

劇中終盤に流れるミュージカル曲の優美さと、ストーリ上の悲壮感のアンバランス感がこの作品の基本スタンスを体現しています。

本作はホラーという一色に収まらず多様な要素を組み込み、後述するテーマ性とも手を結び、大変見応えのある作品に仕上がっていると思いました。このジャンルにとらわれないフレキシブルな作風こそ、シャマランの特色なのでしょう。

 

〈老人と子供の対比〉

老人たちの正体は作中で明かされるように、精神病棟から抜け出した患者でした。彼らの背景のすべてを把握することはできませんが、彼らの子供を巡る出来事があったことは理解できます。

老婆が取り乱すトリガーになるのは、自身の子供とのことを触れられたときです。井戸に子供を捨てた経緯は不明ですが、そのことへの懺悔や苦悩が彼女の異常性を駆り立てたのでしょう。

老人が誰かに尾行されているという被害妄想を抱くのは、子供を遺棄したことによる罪悪感と、いつ捕まるのかのという危険意識からくるものだと考えられます。

子供側の二人もそれぞれ家族に関わる問題を抱え苦しむ様子が描かれています。

ベッカ―は父親との別れにしこりが残ったことに起因し、自身の存在価値を実感できずにいます。鏡で自分の事を直視できないのは、父親に捨てられたと思っている自分を肯定し、受け入れることができない為です。更に透けて見えるのは父親への憎悪と以上に、母親が悲しみに暮れる事への共鳴的な感情です。祖父母と決別した母親の苦しみを、ベッカー自身の抱える父親へのコンプレックスと紐づけし、自己投影しているように見られます。ベッカーの問題解決には、母親の救済が不可分なものなのでしょう。

タイラーの抱えている問題は潔癖症です。ここにも父性の喪失が関連しており、精神の不安定さに対抗するための手段として現れています。対抗手段という意味では、タイラーのやっているラップも自己表現を通して喪失の痛みを和らげる意味合いを担っているのかもしれません。

最後の対決のシーンで、ベッカーとタイラーは各々の抱える問題に対峙します。ベッカーは鏡を、タイラーは潔癖症を克服して危機を脱します。その時二人の乗り越えるべき相手として老婆と老人が設定されているわけです。

 

〈特効薬の意味〉

上記の対決のシーンがベッカーとタイラーの問題解決のきっかけになったのは明らかですが、果たしてそれが本当に二人の救済に成り得たのでしょうか?

一見すると、老人二人を打倒したことでベッカーとタイラーは精神の歪みが正常化されたように思われがちですが、私の見解は違います。

ここで見逃せないのが、ベッカーとタイラーは、自己防衛のためとはいえ殺人を犯しているということです。映画の編集上、対決後の二人の苦悩は描かれないため表面化していませんが、殺人の事実は二人の精神を更に侵食したことは想像に難くありません。二人の経験はむしろマイナスに作用したと考えるべきあり、もっと言えばあのまま救済がなされなければ、ベッカーとタイラーは老人達のような行く末を辿っていたことでしょう。

では、何がベッカーとタイラーの精神の救済になったのかというと、母親からの「特効薬=愛情」だと言えます。終盤、母親のインタビューで「あなたの為に話すの」と前置きをいれています。つまり、殺人という悲惨な経験をした二人を救うために、母親自身の過去を打ち明けたのだと言えます。いかに子供たちに愛情を持っているのかを示すことで「許し」の大切さを伝えました。

子供たちににとっての「許し」とは母親からの無条件の肯定であり、同時に母親にとっての「許し」とは子供たちからのその愛情の反響にあったのです。

特効薬というキーワードは、ベッカーが老婆にインタビューするところで出てきます。ベッカーが、「ある女の子の話」を通じて許しの大切さを説いたあのシーン、老婆の見せた涙は心からのものだったのだと画面から伝わってきます。

ラスト、ベッカーが鏡に面と向かって髪をとかすことができたのも、タイラーが潔癖症をラップの題材にできたのも、偏に母の特効薬があったからです。

 

本作はジャンルをホラーに設定することで、恐怖という人間の負の側面を背景に立てています。しかしそこから浮かび上がるのは親子の愛情の物語です。暗がりの中だからこそ、精彩に明かりが際立つ構造になっています。

ついでにいえば、シャマランの代表作『シックス・センス』でも同じようにホラーと親子愛の対比がなされています。そういった共通項も含めてシャマラン監督の新たな代表作と言えるのではないでしょうか。

 

◆私的な話

実を言うと最初は、床下でかくれんぼするシーンほとんど目を伏せながら見ていました。だって姉弟二人があそこに入った瞬間に「あ、駄目だ。絶対怖いやつ来る」ていうのがわかっちゃうんですもん。そしたら案の定ド迫力の老婆が追っかけてくるし……。

でもレビューを書くにあたって、映画を部分的にせよ見ないというのはいかんと思い、何度もDVDを巻き戻しながらあのシーンに食い下がりました。そんで、少しづつ感覚を慣れさせながら、徐々に視界を遮っていた指の感覚を広げていくという、涙ぐましいい努力を繰り返しました。やっと画面を直視できたのは果たして何回目だったのだろうか?

『セッション』原題『Whiplash』レビュー ~天才の完成 最終場面の解釈を巡って~ 

◆基本情報

・2015年日本公開 

・監督 デミアン・チャゼル 脚本 デミアン・チャゼル

・出演 マイルズ・テラー、 J・K・シモンズ

 

◆あらすじ

全米一の名門音楽学校に入学したアンドリュー(マイルズ・テラー)は、そこで随一の指揮者フレッチャー(J・K・シモンズ)に目をかけられる。しかし、アンドリューを待っていたのは、鬼教師フレッチャーの過酷なレッスンだった。次第に精神をすり減らしていくアンドリューはついに限界がきて、ある演奏会の場でフレッチャーに殴りかかってしまう。その出来事を契機に学校を辞めたアンドリューだったが、フレッチャーの誘いにより、再び音楽の世界に身を投じることになるが……。

 

◆レビュー

今回レビューするのは、本年度(2017年度)大いに話題になった『ララランド』のデミアン・チャゼル監督の出世作『セッション』です。

この作品は2015年度のアカデミー賞三部門を受賞したほか、公開当時から様々な論争を巻き起こるなど注目を集めました。そのため、評論や感想は出尽くした感がある作品ですが、あえて私はこの作品のレビューをしようと思います。というのも本作の最終場面の解釈に関してどうしても言いたいことがあるからなんです。

 

〈アンドリューを取り巻く環境〉

元々アンドリューという青年は比較的おとなしい人物として描かれ、常識とある程度の社交性を持っています。父親と仲良くに映画館に行くところはのどかですし、人並みに恋をするのは普通の大学生と同じようです。

但し、その日常の中でも野心の片鱗を見せています。恋人のニコールが具体的な目標を持たずに大学を決めたことを聞いたシーンでは、すこし怪訝な表情を浮かべています。アンドリューの潜在的に持つ野心と、彼女の考えとの乖離が見て取れます。

親類との食事会では音楽業界自体を過小評価され、大学で一番下のリーグのアメフトMVPの方が評価されます。音楽で偉業をなすことを目指しているアンドリューにとって耐えがたい苦痛でしょう。しかも親類だけならまだしも、信頼している父親からも理解を得られないことがこのシーンでわかります。

アンドリューは穏やかだけれど、決して自分の才能を評価されない環境の中でくすぶっていた。その中から抜きん出ようとする渇望がわかります。

 

〈過酷なレッスン〉

本作で際立って描かれるのは、執拗で暴力的なまでのレッスンです。そのレッスンでは二つの側面からアンドリューを追い詰めていきます。

第一に肉体的な側面に関して。

最もよく表れているのは、中盤でドラムの三人を何度も交代させながら体力の限界になるまで演奏させ、徹底的に追い込むシーンです。テクニックを磨く目的というよりもただ体を苛め抜くことが目的になっています。薄暗い空間の中に怒号とドラムの音だけが永遠鳴り響き、苦悶の表情が印象的です。そして、手の平からにじみ出た血が痛々しく映ります。このシーンに限らずですが血の見せ方がうまく使われており、アンドリューがいかに過酷な練習をしてきたのかが視覚的に表現されています。

第二に精神的な側面に関して。

レッスン中、フレッチャーは相手を怒鳴り散らして支配する手法を使っていますが、それだけではありません。ドラムの主奏者の席を奪い合うようにアンドリュー、タナ―、コノリーの三人を競わせる構造を作り上げているのです。フレッチャーは暴力的なだけではなく、心理的に相手を操る術を駆使していることが分かります。

本作の全体にある切迫感は、アンドリューの感じている精神的な揺らぎが観客に伝わっているからだと考えられます。それはマイルズ・テラーの演技による表情の変化、初めはどこか間抜けでお人よしそうだった青年が徐々に目の奥に狂気を滲ませていく様に表れています。アンドリューがバスに乗った際に、ぶつぶつと一人ことを言っているシーンや、他の演奏者に強くあたり散らすシーンで彼の変わり様が伺えます。

 

フレッチャーの過去〉

劇中彼の教え子が自殺してしまったという連絡が入るシーン。フレッチャーは心の底から自責の念を抱いていることが分かります。彼の目的はどこまで行っても天才を作り上げる事だと言えます

フレッチャーが、チャーリー・パーカージョージョーンズのエピソードを語るシーン、彼は言います。この世で一番危険な言葉は「上出来だ」なのだと。絶対に音楽に妥協しないことが天才の必須条件であると彼は語っているのです。

 

〈ラストの演奏〉

最後の演奏前にフレッチャーは罠を仕掛けます。アンドリューにわざと演奏するのとは違う曲を伝え、彼に恥をかかせたのです。このシーンでは大きく二つの解釈が可能です。というよりも作り手の意図として、解釈に選択肢を持たせるような構造になっているのです。

一つ目はフレッチャーが、自分を密告をしたと思っているアンドリューに対して純粋に復讐する目的で罠を仕掛けたという解釈です。

そして二つ目は、フレッチャーは自分を憎ませるようにアンドリューに仕組み、アンドリューが再び立ち上がるのを見越してあえて、罠を仕掛けたという解釈です。つまり、フレッチャーは演技をしていたということになります。

この解釈を紐解く上で私が注目したのが、アンドリューの代わりのドラム奏者が不在であるという事実です。

あの演奏会はフレッチャーにとっても名誉がかかったもので、そこでの失敗は彼自身にも相当な痛手のはずです。フレッチャーがあくまで復讐だけを目的としていた場合、当然に代打のドラム奏者を用意していなければ、その後の演奏は成り立たなくなってしまいます。

またフレッチャーは以前より、競争原理によって生徒を支配する手法を使っていました。そのことも踏まえると代わりの演奏者がいたほうが、アンドリューへより強い精神的なダメージを与えられると考えそうなものです。

これらは明らかに不自然です。つまり、フレッチャーは代わりの奏者が要らないことが分かっていた。アンドリューが必ず戻ってくることを確信していたからに他なりません。

フレッチャーがここまでしたのは、アンドリューを「何もない孤独な状態」に追い込むことが目的だったのだと考えます。

アンドリューは恋人と別れ、父親とも距離ができていきます。そんな彼に残っていたのは、音楽とフレッチャーだったのです。アンドリューはフレッチャーをただ憎んでいただけではなく、自分を導いてくれる存在として依存していたのでしょう。最後アンドリューには何もありません。自分の存在をかけて演奏するしかアンドリューには道が残されていなかったのです。

劇中アンドリューの口からも語られているように、チャーリー・パーカーは孤独なまま死を迎えました。偉大になるには一つの分野に徹底して打ち込むしかありません。その為には周囲の人間など邪魔でしかなく、結果的に孤独であることが天才の条件の一つなのかもしれません。

ラストの演奏の前半はあくまでフレッチャーの予想の範囲内の出来栄えだったのが、後半それを超えた次元の演奏を披露します。フレッチャーの表情の変化が、それを如実に物語っています。

あの演奏シーンに心をわしづかみにされた観客は大勢いたことでしょう。それは演奏の途中で真の天才があの場に誕生したからです。狂気の先にある圧倒的なカタルシスには誰もが飲み込まれるのです。

 

◆私的な話

デミアン・チャゼル監督は『セッション』『ララランド』で完璧に監督としての地位を確立しましたね。共に音楽を題材にした傑作だったのですが、驚くべきは次回作に宇宙飛行士の伝記ものを選んだことです。今までの作品は監督の経験が大きく反映されたものになっていただけに、全く違う趣向の作品を作ったらどうなるのかすごく楽しみです。あんまり予想がつかないという意味もありますが……。

あと、レビューへの反応があればうれしいです。『セッション』みたいに解釈の余地が残されている作品の方が、人と意見を言い合ったりで楽しめます。よろしくお願いします。

『ドント・ブリーズ』原題『Don't Breathe』レビュー ~倫理と金の物語~

◆基本情報
・2016年日本公開
・監督 フェデ・アルバレス ・脚本 フェデ・アルバレス、 ロド・サヤゲス
・出演 ジェーン・レビィ、 ディラン・ミネット、 ダニエル・ソヴァット、 スティーブン・ラング

◆あらすじ
盲目の老人宅に大金があることを知った若者三人は、強盗に入ることを決める。当初の計画では簡単に事が済むはずだったが、老人の抱える秘密が明かになり……。

◆レビュー
〈ホラー映画としての到達点〉
この作品に一貫してあるのは、ホラーとしての緊張感です。さほど過激な描写を入れていないのに、常に急き立てられるような張りつめた空気が伝わります。
よくホラー映画で幽霊やら殺人鬼に追いかけられた末、押し入れなどに身を隠してやり過ごすシーンがあります。あのようなシーンにハラハラとした緊張感があるのは、今にも敵対者に見つかってしまうという、薄氷を踏むかのような状況設定がなされているからです。
その点で本作は、「盲目」という設定により、敵対者が目の前にいるのにギリギリ接触しない状況を造り上げることに成功しています。それにより、本来なら刹那的なはずの緊張感を、常時保ち続けることができているのです。
他にも個別のシーンそれぞれに意匠を凝らしてあります。
マニー(ダニエル・ソヴァット)が盲目の老人を眠らせに行くシーン。老人は先程まで眠っていたのに、マニーが一瞬目線を切ると、ベットから体を起こしています。テレビでは老人の一人娘の幼い頃の映像が流れており、その声がかえって不気味に響きます。
地下室で老人がブレイカーを落としたシーンでは、今まで優位を保っていた若者二人が、老人と同じ条件に追い込まれ、緊迫感のベクトルが変わります。
ラスト20分間では、一度脱出できたロッキー(ジェーン・レビィ)が犬に襲われ、その難を逃れた矢先に再び捕まるなど、二転三転する構成力を見せます。この映画は、正味一時間半もないにも関わらず、終盤付近では「流石にもう終わってくれ」と思うほどの疲労感があります。(いい意味でです)
エンターテイメント性の追求という意味では、抜群の出来だと言えます。

〈それぞれの倫理〉
本作はキャラクターの掘り下げに伴う人物造形もしっかりしています。そこから浮かび上がるのは、彼らの抱える人生と倫理観です。
ロッキーは苛烈な家庭環境の中で妹を守るために盗みに手を染めています。
アレックスは父のセキュリティ会社の情報を利用するも、その父に迷惑をかけられないといった一面を見せます。また、1万ドル以上は盗まないといった線引きをするなど、むしろ理知的で好青年な印象すら感じます。
一番粗野なイメージのマニーですら、老人に最後まで威嚇射撃しかせず、死に際に仲間を庇う様子を見せます。
彼らには事情を抱えながらも犯罪をしてしまう人間臭さがあります。ひいては、人間としての倫理観を保ち、その一線を踏み越えない人物たちとして描かれています。
対する老人も異常性の際立つ描写はいくらでもありますが、背景に娘を失った悲しみも抱えています。
そして令嬢への報復の手段にも、ある種の筋の通し方も伺えます。そのため、老人にも理解できる部分があります。
老人と強盗三人組との戦いは、それぞれが抱える倫理観のぶつかり合いでもあるのです。

〈金の問題〉
盲目の老人があそこまでの異常者になったのは、娘を殺した令嬢への怒りだけだったのしょうか?
そもそもこの物語は、老人宅に多額の示談金があることに端を発しています。しかしよく考えれば、この設定自体に矛盾があることがわかります。
老人が令嬢を監禁し妊娠させたのは娘の代役を求めた為。理論上、それだけで老人の復讐は完成されるはずです。しかし老人が示談金を受け取ってしまえば、憎むべき相手からの施しを受け入れたことになってしまいます。
また、老人は反社会ではあれど、彼なりの筋の通し方にこだわりを持っていることは明らかです。
この矛盾を踏まえて考えれると、老人には、愛する娘を殺した相手に迎合し、金を受け取ってしまった後悔があった。つまりは、金の誘惑に屈服した自分自身への怒りが、老人の異常者へと掻き立てたのではないかと推測できます。
ラストシーン、ロッキーは選択を迫られます。
警察に通報した直後、その場に留まりあの家で行われた出来事を明らかにする道、あるいは金を持って逃走する道です。そして後者を選びました。彼女はあれだけ悲惨な出来事にあいながらも、金を得ることを選びました。
彼女が前者の道を選んでいたならば、アレックスとマニーがただの強盗として死んだのではないこと、老人がただの盲目の被害者ではないことが明らかになっていたことでしょう。
物語の結末は大きく変わっていたことになります。

結論として、本作で描かれているのは、倫理観に葛藤しながらも、金に翻弄される人間の物語です。人間の持つ強欲さが罪の始まりであるのだ、というテーマが隠されていると考えます。

娯楽性を楽しむも良し、テーマ性を紐解いても良しの本作は、多くの人におすすめしたいです。但し、色々とエグい描写も多いので、その点だけ注意をしてください。

◆私的な話
本作で盲目の老人を演じていた俳優は、スティーブン・ラングという方で、調べたらそこそこキャリアを積んでらっしゃいました。
ただ、この人を初めて見てモーガン・フリーマンだと思い込んだのは私だけではないはず……